10. 『ガリバー旅行記』のモデルになったイギリス人とは誰?  ≪ William Adams ≫

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☆1 『ガリバー旅行記 (Gulliver’s Travels)』

 『ガリバー旅行記』といえば、「小人の国 (Lilliput)」「巨人の国」などの子供向けのお話として知られていますが、1726年アイルランドのスウィフト(Swift)が著した風刺小説です。その当時の王政・貴族政治を痛烈に批判したもので、子供向けの童話として出すしかなかったものです。

 他にも「飛ぶ島(ラピュタ)」「Japan」「馬の国」(*1)などの話がありますが、実在の国の名前として出てくるのは「Japan」だけです。

 17世紀に1人のイギリス人がJapanという想像もできないような「不思議な国」で暮らしている、という話は、ヨーロッパの宣教師の報告や東インド会社の通信によって伝えられていました。 Japanではおかしなヘアースタイルをして、男もスカートをはき、変な挨拶をし、すぐ切り殺される、とか。ウィリアム・アダムズという男はイギリス人なのに、日本人の恰好をして、日本の王様に気に入られている、などなど。アダムズが家康に会っている絵や、秀忠がイギリス国王に送った甲冑、アダムズの手紙などがロンドンの「大英博物館」に残っているそうです。

 スウィフトはこのような話からもヒントを得て童話を書いたと思われます。スウィフトの蔵書リストにある「パーチェスの巡礼」にはアダムズの手紙が収録されているそうです。

 

☆2 ウィリアム・アダムズという人は、どんな人なのでしょう?   William Adams(1564~1620)

 イギリス、ケント州で生まれ、12歳で造船家のもとで修業、船大工の技術を身につけました。さらに独学で航海術、天文学、幾何学も学んでいました。時はヨーロッパの大航海時代。1580年ドレイク船長が世界周航を果たし、多くの若い船乗りが世界へ出て行き一山あてたいと思っていた時代です。1588年(24歳)イギリスのスペイン無敵艦隊との決戦で、航海士として輸送任務に従事。ロンドンで結婚、2人の子供を持ちました。

 34歳の時、オランダから東洋へ向けて遠征隊が船出するという話を聞いて、勇んでオランダへ行き、オランダの東インド会社に入りました。
 1598年(34歳)オランダのロッテルダム港を5隻の船団(480人)で出発。その中のリーフデ号は300t、110人乗り。 西回りで大西洋を進み、南アメリカの南端を回り、太平洋を渡る2年間の厳しい苦しい航海の後、1600年4月、日本の大分県臼杵あたりに着いたのはリーフデ号のみ。嵐や病気や栄養不足のため、着いたとき生存者は20人ほど。そのうちどうにか歩けたのは数人という悲惨な状況でした。 (*2)

リーフデ号の模型 東京 丸ノ内

 外国船が着いたという知らせは、すぐに大坂城にいた家康のもとに届き、大坂城まで来るように命じられました。リーフデ号は堺に回航され、ウイリアム・アダムズとヤンヨーステンが代表として家康に会いに行きました。

 この時は1600年9月の関ケ原の戦いの半年前。家康はオランダ船の積荷の鉄砲に興味がありました。リーフデ号は500丁の銃、大型の大砲19門も積んでいたのです。

 当時は日本にキリスト教の宣教師がやって来るようになって50年、ポルトガル、スペインのカトリックの宣教師達がかなり日本に滞在していました。彼等は敵対する新教国のオランダ船に乗って来たアダムズ達のことを悪い海賊だと家康に吹き込み、すぐに殺すべきだと主張。そのため1か月も牢に入れられてしまいました。

 しかし家康は何度かアダムズに会って話を聞くうちに、しだいにアダムズの誠実な人柄や深い知識にほれこみ、彼の方を信頼するようになりました。

 

☆3  関ケ原の戦いの6か月前に家康に会う、というタイミング

 関ケ原の戦い以後、絶対権力者になった家康に信頼されるということは、日本での特権を得たようなものです。家康はアダムズを帰国させたくなかったのでしょう。アダムズは江戸城のすぐ外に屋敷を与えられ(*3)、三浦半島の逸見(へみ)村(横須賀)に領地まで授かり「サムライ」になったのです。日本名は「三浦按針」と名乗りました。「按針」は水先案内人という意味です。

三浦按針屋敷跡 日本橋室町 東京
日本橋 按針通り

 1604年家康の命令で、伊豆半島の伊東でイギリス式大型帆船(80tと120t)も建造しました。家康はこの頃は海外貿易を盛んにしようとしていたのです。

 家康は様々なヨーロッパの新知識を与えてくれるアダムズを外交顧問として重宝し、初めのうちは帰国を許しませんでした。しかし、1613年イギリス国王の親書を携え、貿易使節としてセーリス(Saris)司令官が来航したとき、そろそろ帰国させてやるべきかと考えて、この機会に帰国してもよいと許可を与えました。

 しかしセーリス司令官は貴族趣味で傲慢な態度をとり、職人出身のアダムズとはそりがあわず、今度はアダムズ自身が帰国を断念。東インド会社を通じて家族に送金したり手紙を送ったりしていましたが、ついに死ぬまで日本で暮らし、イギリスの家族には会えないままになりました。

 関ケ原の戦いに勝っても、豊臣家を滅ぼすまで安心できなかった家康は、大坂冬の陣で大坂城攻略のためオランダ、イギリスから、有効射程500m以上のカノン砲や、すさまじい威力のカルバリン砲(口径91cm、14kgの砲弾を最大6.3kmも飛ばせるもの)まで買い付けていました。その大砲で大坂城の天守閣を狙い淀殿を震え上がらせ、ついに豊臣家を滅亡させました。(1615年) (*4)

 やっと豊臣家を滅ぼした家康は次の年1616年75歳で亡くなりました。家康が亡くなってからは、それまでのアダムズに対する厚遇への反発もあり、平戸や長崎でポルトガル人、オランダ人、イギリス人などの争いに悩まされたりしましたが、家康の死後4年、1620年平戸で病気になり、亡くなりました。36歳から56歳まで男盛りの20年間、日本にいたことになります。

 

☆4 アダムズと家康

 1600年アダムズが日本に着いてから、1616年家康が亡くなるまで、16年間の二人のつきあい。アダムズは最初殺されかけたところを家康に助けられ「サムライ」にまでしてもらったので家康に感謝し、日本の文化にも謙虚に合わせようとしました。(これは他のイギリス人から見ると眉をひそめるものでした。)家康もアダムズの新知識を得られて、二人の交流は男と男の友情に近いものになっていたのかもしれません。

 そもそもアダムズの船が日本に着いた時、ほとんどの人が瀕死の状態だった中、彼は歩いて家康に会いに行けたのですから、体も精神も頑健な人だったのでしょう。晩年、平戸でオランダ人を助けるため、湾内に停泊していた帆船に一人で泳いで行って助けたりする侠気、勇気もあり、お話の主人公にふさわしい人のように思われます。不思議な国で生きてゆくガリバーのモデルとしてもピッタリではありませんか。

 1980年に日本でも上映された『Shogun』というアメリカ映画もアダムズがモデルです。(*5)

 

ひとことで言うと

 徳川家康の時代に日本にやってきたイギリス人船乗りウィリアム・アダムズの話がヒントになったのではないかと言われています。彼は家康と親しくなったことで、日本の歴史を左右するほどの影響を与えました。

 

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*1 「馬の国」では、馬が主人で家畜人間(人間に似た獣ヤフー)が批判されています。これは、当時日本との貿易をオランダが独占していたので、踏み絵をしてまで日本との貿易で莫大な利益をあげているオランダに対する批判とも考えられるそうです。

*2 東京駅の丸の内側(皇居側)の丸ビルと三菱ビルの間の路上には、リーフデ号の3メートルくらいの大きさの模型がドンと据えられています。1980年オランダのアフト首相来日の際、オランダ政府から日本政府に送られたものです。(ちなみに “Liefde”というのは「愛」という意味です。)

*3 日本橋三越の中央通りをはさんで向かい側の一角に「三浦按針邸跡」の碑があります。

日本橋の橋の方から進み、三越の向かい側の最初の道を右に入ると2ブロック目にあり、その通りは「按針通り」と呼ばれています。

アダムズと同じ時に家康から邸をもらったオランダ人ヤンヨーステンの名前が東京駅そば「八重洲(やえす)」の名のもとになりました。彼の記念像も東京駅地下街にあります。

ヤンヨーステンの説明版
ヤンヨーステンの記念像

*4 『われに千里の思いあり』 中  中村彰彦著  文藝春秋 2008年

*5 原作はJames Clavellというオーストラリア生まれのイギリス人が書いた小説『Shogun』です。

**『按針と家康』クラウス・モンク・プロム著(Claus Munk Plum) デンマーク語  幡井勉 下宮忠雄訳  出帆新社 2006年

『青い目のサムライ 按針に会いに』  逸見道郎著 (浄土寺住職)

『青い目のサムライ 三浦按針』 牧野正著 伊東観光協会 黒船出版部 1980年