12. 江戸城に天守閣がないのはなぜ?  ≪ 保科正之(ほしなまさゆき) ≫

Print Friendly, PDF & Email
 

☆ 1 1600年前後の江戸城

 江戸城はもともと室町時代「応仁の乱」の頃、鎌倉公方(くぼう)方と争っていた扇谷上杉一族の城として築かれ(1457年)、太田道灌(どうかん)が居城にしていました。大川(隅田川)の河口で、日比谷入り江に面しており水運には良い場所でした。

 1590年秀吉が小田原の北条氏を滅ぼした時は、北条氏の持ち城のひとつになっていました。秀吉は、目ざわりな徳川家康を畿内から遠い東へ追いやるため、北条氏の所領であった関東7か国に領地替えをし、葦が生い茂る湿地だらけの小さな村、江戸に住むよう命じたのです。

 徳川家の人々は、住み慣れた三河や浜松、駿府から離れるのは残念でたまりませんでしたが、その時は秀吉の命令に逆らえず、仕方なく江戸へうつりました

 江戸では今まであった小さな城を大増築、江戸の町は城を中心にしだいに広がっていき、城下町が造られていきました。

 1600年の「関ケ原の戦い」の後は、江戸の徳川家康が押しも押されぬ日本一の存在になり、 江戸城の天守閣も、最初のものは1607年、豊臣秀頼のいる大坂城に対抗するため鉄壁の守りの高さ68mの連立式天守閣を完成させました。江戸の徳川家の権威を見せつけるためのものなので、大坂城よりも大きい日本一のものでした。

これは大阪城の天守閣

 しかし16年後、2代将軍秀忠が、徳川体制すでに盤石になったとして、防御のためより実用的に使いやすいようにと、政務を行う本丸御殿の部分を大きく広げ、天守閣はシンプルに新しく作り変えました。偉大な父親に対する自分の存在をアピールしたかったのでしょうか。

 さらに14年後には、3代将軍家光が、地震などの災害に備えるため軽い銅の屋根瓦の天守閣に又新しく作り変えました。(1638年) 3代の将軍それぞれの思い入れの深い天守閣だったのかもしれません。

 しかし、家光が造った天守閣もわずか19年後の1657年「明暦の大火」で、本丸、二の丸とともに焼失してしまいました。

 2年後しだいに城の再建築もすすんだので、天守閣も再建したらどうかと時の大老井伊直孝が言い出しました。その時、将軍相談役の保科正之(ほしなまさゆき)が「すでに戦国時代が終わって50年、天守閣が必要な時代ではない。今は民の生活の方が大切だ」と力説し、結局、天守閣の再建は先送りということになり、それが幕末まで続き、そして今まで続いているのです。

 現在は皇居東御苑に天守閣の台座部分が残っています。

天守閣の台座部分

 たまに、東京にも天守閣が欲しいという人達が再建運動をすすめていると聞くことがありますが、いまだに再建されていないのは、何となく正之のことを思い出すからではないでしょうか。

( 明治時代以降は、江戸城が皇居になったからということもあるでしょう・・)

 

☆ 2 保科正之 ( 1610 ~ 1672 )

  保科正之という人は、あまり知られていませんが、会津藩の祖となった名君です。会津藩は幕末に新政府軍と戦って「負けた側」なので、あまり取り上げられないのかもしれません。

 正之は徳川2代将軍、秀忠の子供として生まれました。

 秀忠の正室は、織田信長の妹、お市の方の末娘お江で、秀忠はお江に頭が上がらず、この時代としては珍しく、妻以外の側室はいませんでした。しかし、そんな秀忠がただ一度、お江以外の人に生ませた子が正之で、生まれた時からお江側が差し向ける刺客に命を狙われるという宿命のもとに生まれたのです。

 そのまま江戸にいたら危ないということで、武田信玄の息女、見性院(けんしょういん)のつてで信州高遠(たかとお)の保科家に養子として預けられ、そこで実の母や保科家の人々に大切に育てられ、大きくなりました。

 秀忠にはすでに、家光、忠長(ただなが)という2人の男の子がいました。病弱だった家光は当時の習慣として乳母のおふく(のちの春日の局)に育てられ、おふくとお江の方との確執の中で、母お江の方から愛されずに育ちました。お江の方は、丈夫な賢い次男の忠長は自分の近くで育てたいと思い、溺愛して育て、しだいに周囲の人達も、次の将軍は忠長の方ではないかと思うほどになりました。

 そこでおふくは、駿府城にいた家康に訴え、家康が江戸城まで出向いて行って、次の将軍は長男の家光だということをはっきりさせました。「『実力主義の戦国時代は終わった。これからの平和の時代には争いが起きないよう『長幼の序』が大事なのだ」ということを肝に銘じさせたのです。

 自分の方が親に愛され、3代将軍になるはずだったという思いで育った次男の忠長は、家光が将軍になってからも自分の思い通りに振る舞い、家光に従わなかったので、ついに家光は、忠長を切腹させることになってしまいました。(忠長28歳の時)

 三男の正之の方は、立派に成長して江戸城に出仕するようになりました。家光は弟忠長を死に追いやったこともあり、残されたただ一人の弟正之を頼みにするようになり、正之も謙虚な態度で家光のために働きました。正之は21歳で高遠藩主になった後、山形藩、そして会津藩28万石に移封され、幕府の中でも重要な地位を占めるようになりました。

 1651年、家光が亡くなった後は、11歳で4代将軍となった家綱(いえつな)を補佐し、実質上の副将軍として徳川家のために誠心誠意尽くしました。

 

☆ 3 「明暦の大火 」1657年

 そして「明暦の大火」です。強風で3日2晩燃え続けた江戸の町が半分以上焦土と化し、10万人以上が焼死したといわれます。

 正之は、浅草蔵前にあった幕府の米蔵を誰でも勝手に火を消して米を持ち出してもよいというおふれを出したり、焼死体を回向院(えこういん)に集めて弔わせたり、米不足を少しでも解消するため大名達を国もとに帰らせたり、普通の人が思いつかないようなことを次々実施しました。

火事のとき大川(隅田川)の向う岸に逃げられず多くの人が焼死したので、大川に「両国橋」をかけ、上野広小路に「火除け地」を作り、江戸の復興都市計画もすすめました。この時の都市計画がその後の江戸の町の基本になって発展したといわれています。

 その他にも、江戸の民のための「玉川上水の開削」、秀忠・家光の時代、多くの大名家が取りつぶしにあい、そのため江戸にあふれていた「牢人」たちのための対策(*1)、大名が死亡してからの「末期養子の容認」、「殉死の禁止」などを取り決めました。自分自身の国元、会津藩でも、飢饉の時のための備蓄米制度、90歳以上の老人たちのための年金のような今で言えば福祉制度などの善政を行いました。

 このような無私無欲の高潔な人格者だと誰もが認める正之が「天守閣は今では不要、それより民の為になることをすべきだ」と言ったからこそ、皆が納得したのです。

 

☆ 4  正之が、常に民のため徳川家のためを考えて様々な政策を実行した理想的な政治家になったのは、どうして?

 生まれた時から命を狙われ、父親、秀忠とは最後まで名乗りをしてもらえないというような境遇で育ったので、生きていられるだけで感謝し、自分を慈しんで育ててくれた人達のために恩返しをしたいという謙虚な考え方ができたのでしょうか。

 預けられた高遠藩保科家では、小さな藩全体が家族として常に民のことを考えるように教えられ、小さい時から村々を家老に連れられて見て回り、政道とは民のことを考えることだと教えられ育ちました。ここに正之の政治に対する原点があると思われます。

 一生懸命世の中のために働き続けた正之ですが、自分の家庭生活の方はあまり恵まれず、結婚後すぐに妻が亡くなり、長男は明暦の火事騒ぎの中で亡くなり、次男にも先立たれ、2番目の妻には側室に対する嫉妬から娘の1人を毒殺されるということもありました。

 しかし、4代将軍家綱(「明暦の大火」の時は17歳)を補佐したり、金沢前田家の若き5代目藩主、前田綱紀(娘婿)の後見役を頼まれアドバイスしたり、若いリーダーたちにも大きな影響を与えました。

 家光、忠長、正之の三人兄弟、三人三様の人生!

 

ひとことで言うと

 1657年 江戸の大火事で江戸城が焼失した後、「天守閣の再建より民の生活の方が大事だ」という保科正之の英断で、再建されないことになりました。

 

 --- (*) ---

 

*1 家康・秀忠・家光までの50年間で217家(875万石)が取り潰され、「牢人」の数は40万~50万にのぼったとのことです。  (「逆説の日本史12」の中の「国史大辞典」吉川弘文館 による)

 

**『名君の碑 保科正之の生涯』  中村彰彦著  文藝春秋 2001年

『われに千里の思いあり』 上 中 下(金沢前田家藩主五代) 中村彰彦著 文藝春秋 2008年

『疾風に折れぬ花あり』(武田信玄五女 松姫の一生) 中村彰彦著  PHP研究所  2016年