15. 「中国地方」はなぜ「中国」?   ≪ いずものくに ≫

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「中国(なかつくに)」というのは、昔々「いずも」のクニが自分達のクニのことを称したものですが、「やまと」のクニに敗れ、公には使われなくなりました。再び正式の名称として用いられたのは、明治時代になってからです。

 私は広島出身なので、新聞といえば「中国新聞」、テレビは「中国放送」、他にも「中国電力」「中国山地」「中国自動車道」など、ごく自然に慣れていたので何とも思っていませんでしたが、日本語学校で「中国地方」と言うと「え!?」という顔をされることがあります。なぜ「中国地方」と言うのでしょうか?

 

☆1 4世紀以前「いずも」-「中つ国」

  日本の歴史を習うとき、大体最初のまとまった「クニ」として記録に残っているのは、4世紀頃の「やまと」のクニとされ、それ以前のことはよくわかりません。しかし、「やまと」のクニよりずっと前に大陸から渡って来た人達は、まず大陸に近い日本海側に住み始めたでしょう。(*1)その後も大陸で争乱が起こるたび日本列島には様々な戦いに負けた人々が逃げて来て暮らすようになり、1世紀頃から4世紀頃まで日本列島内でも何度も何度も勢力争いなどを繰り返しながら村や小さなクニがまとまっていきました。

 主なクニとしては、日本海側に「いずも」(島根)、「こし」(北陸地方 *2)、他にも「つくし」(北九州)、「きび」(岡山)、「やまと」(奈良)、「けぬ」(群馬・栃木 *3)などがありました。

 その中で、日本海の「海の道の港」と中国山地の「鉄」と「銀」を持っていた「いずも」のクニは強国になり、「こし」のクニも勢力下におさめ、日本海沿岸から内陸に入っていった「しなの」の方まで、かなり広範囲に大きな勢力を誇っていました。

 
「いずも」と「やまと」

そのころ「いずも」の人々は、自分たちのクニのことを

―――  神様のいる天の「高天原(たかまがはら)」に対して

―――  ここが地上中心「葦原の中つ国(あしはらのなかくに)」(*4)

と表現しました。

 やまとことばの「なかくに、中つ国」は漢字語で表すと「中国」になります。

 

☆2 「いずも」と「やまと」奈良時代 (8C )~江戸時代 ( 19C )

  しかし後から力をつけてきた「やまと」のクニが「いずも」のクニに戦いを挑みました。そして遂に「やまと」の方が勝ち「いずも」は涙をのんで屈服しました。他のクニもしだいに「やまと」の下につき、6世紀初めには遂に「つくし」も「やまと」と戦って屈したということが「磐井の乱」といわれ歴史に残っています。が、「いずも」のことはもっとずっと前のことなので「神話」の世界にしか残っていません。歴史は勝者の歴史なので「いずも」のことは封印されてしまいました。

 ついに「やまと」が日本を統一し、国を整えた奈良・平安時代 (8世紀)からは、正式には中国地方のことを「山道、山陽道」と呼ぶようになりました。「やまと」は「出雲(いずも)」のことを「中国」とは言いたくなかったからです。その他は、京都を中心にした「畿内」、「東海道、東山道、北陸道、南海道(四国と紀伊)、西海道(九州)」に分けられました。「道」というのは「街道」という意味だけでなく「地方、地域」という意味で使われました。

 
「山陰道」と山陽道」 奈良時代から江戸時代

ということで、奈良時代(8世紀)から江戸時代まで(~1868)、公式には、「いずも(出雲)」が「中国」ということは出てきません。しかし一般には「中国地方」という言い方はずっと使われ続けていたようで、例えば秀吉の「中国大返し」などもあります。特に「中国山地」は他に言い方がないので、使われていました。

 

☆3 「出雲大社」

歴史は勝者の歴史です。敗者はひっそりと悔しい思いを1500年以上、抱き続けているのかもしれません。「いずも ( 出雲)」の国では今でも特別なプライドがあり、「出雲大社」はそのシンボルになっています。

 毎年10月には全国の「八百万(やおよろず)の神々」が「いずも」に集まり他の国にはいなくなるので、旧暦10月は「神無月(かんなづき)」と言われ、一方「いずも」では「神在月(かみありづき)」と言われます。

 明治神宮などほとんどの神社は拝礼のしかたとして「二礼二柏手一拝」と決めていますが、出雲大社では、「やまと」とはちがうということを表すため、拍手のところを「四柏手」としています。(*5)いろいろ隠された「歴史」があるのでしょう。

 

☆4 明治時代(19C)「中国」復活

「やまと」は「中国」という名前を消したかったのかもしれませんが、明治時代にまた正式に復活し、現在も使われています。さて、なぜでしょう? (「山」というのは感じが良くないと思っていた人達もいたそうですから)

 ヒント ーー 明治時代の支配者は?

 答え ーー  明治維新の立役者を数多く生んだ町、長州の「萩」は「日本海側」です。(*6)

 
現在の「中国地方」

☆5  現在の中国地方

  現代では、冬寒く雪が多い日本海側に対して、太平洋側の方が気候が良いので、太平洋側・瀬戸内海側の方に交通が発達し、大きい都市も多く存在します。そのため、中国地方の中心地は広島のようになってしまい、中国新聞の本社も、中国放送の本社も広島にあります。しかし、もとは「いずもの国」だったのです。

 

ひとことで言うと

 昔々、「いずも」のクニが「自分たちの住んでいる所が世界の中心(中つ国)だ」と表現したことから、「中国地方」と言われるようになりました。

 

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*1 「8.日本人はどこからやってきた?」参照

*2 後に「こし」のクニに「越の国」という漢字をあてたので、「越前(福井)、越中(富山)、越後(新潟)」になりました。京都に近い方から「前」「中」「後」。

*3 「けぬ」のクニは後に「かみけぬ」のクニ(群馬)と「しもけぬ」のクニ(栃木)に分けられ、漢字語では「上毛野国」「下毛野国」と表され、そのあと省略して「上野(かみつけ→こうづけ)」「下野(しもつけ)」になりました。それで、「赤穂浪士」に出て来る「吉良上野介」は「きらこうづけのすけ」と読みます。群馬県は「上州」になり、群馬県(上毛野国)の高崎と栃木県(下毛野国)の小山をつなぐJRは「両毛線」になるわけです。川の名前は「鬼怒川(きぬがわ)」になりました。

*4 「つ」というのは、所有の「の」の意味です。「まげ(目の毛)」「沖白波」のように。

*5 「出雲大社」と同じくらい古い「こし」のクニ(新潟県)の「弥彦(やひこ)神社」も「四柏手」です。

*6 関ヶ原の戦いで徳川方に負け、長州国と周防国の二国に押し込められた毛利家は、交通の便の良い山陽道の山口に城を作りたかったのですが、山陰側の萩に城を築くよう徳川幕府から強要されました。その他もろもろの関ヶ原以来の恨みが長い間たまっていて、それが爆発したのが明治維新につながりました。  (『逆説の日本史 12』 井沢元彦)