16.なぜ日本は植民地にならなかった?  ≪ギリギリの綱渡り≫

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☆1 ザビエル    ☆2 秀吉   ☆3 オランダ   ☆4 ハリス   ☆5 小栗上野介   ☆6 高杉晋作   ☆7 徳川慶喜   ☆8 榎本武揚   ☆9 ソ連   ☆10 アメリカ   ☆11 元寇

 

 16世紀ヨーロッパが「大航海時代」(The Age of Discovery)に「発見した」土地を次々と武力で奪って植民地にしていった時、日本はなぜ植民地にならなかったのでしょうか。

(なぜ16世紀ヨーロッパが船で大海原に乗り出していったかは「11.江戸時代ヨーロッパの中でオランダだけが貿易相手国になったのはなぜ?」参照)

 南アメリカのインカ帝国もスペインのピサロ達にめちゃくちゃにされ、皇帝は処刑され1532年ついにスペインに征服されてしまいました。

 南アメリカの国々は現在も、ブラジルはポルトガル語、その他の国はスペイン語を話しています。なんとポルトガルとスペインは自分たちで勝手に決めて南アメリカを分けて取ったのです。(1494年トルデシリャス条約 Tordesillas)

 アジアでもアフリカでも多くの国がヨーロッパの国の支配下に入った時、日本はどうして植民地にならずにすんだのでしょうか。

 これまでの歴史を振り返ってみれば、日本も外国に侵略されそうになったり、あやうい危機的な場面が何度もありましたが、最後のギリギリのところで独立を保つことができたのはなぜ?

それは、日本が島国であったからだけではなく、様々な人々の必死の努力があったから・・・?

 私たちの知らない世界での危機も数多くあったことでしょうが、歴史の中でざっと知ることができる、危なかった場面だけでも以下のようなものがあります。

 

日本の [ 戦国時代 ]    ( ヨーロッパの「大航海時代」)

 

☆1 1549年 初めて日本に来た宣教師が「フランシスコ・ザビエル」だった

 1543年中国船に乗って来たポルトガル人が鉄砲や硝石を日本に売り込みにやって来てから、江戸時代の初め(1641年)まで大体100年間ポルトガル、スペイン、イギリス、オランダの国々との関係が続きました。

 庶民はキリスト教で、大名たちは鉄砲で取り込み、あわよくば日本を支配しようとしていた人たちもいたかもしれません。当時日本は「銀」が豊富に採掘されていたので、石見銀山を狙われたこともあります。貿易で一攫千金をねらう商人やカトリックの宣教師たちが何十人も来ており、長く滞在した人もいました。

 そのような人達の中でも、1549年最初に日本にキリスト教を布教しようと思ってやって来たザビエルは、本気でカトリックの教えを広めたいと思っていた一人で、他の多くの宣教師達からも尊敬されていた人でした。ザビエルは、時の権力者から布教許可を得ようとして京の都へ行き、その時の都の荒れ果てた様子を見て、これはダメだとがっかりし、中国へ渡って行き亡くなりました。織田信長の「桶狭間の戦い」の約10年前のことです。

 ザビエルが日本にいた期間はわずか2年(1549~1551)でしたが、最初に日本にやって来た影響力のある宣教師がザビエルだったことはかなり幸運なことでした。もしピサロ達のようなひどい侵略者たちが日本に来ていたら・・?

 

☆2 1590年「秀吉」の全国統一が間にあった

 ポルトガルやスペインから日本に人がやって来るようになってから50年近くたち、商人や宣教師たちの数はかなり多くなっていました。

 16世紀当時、日本は戦国時代で、戦国大名たちが領土を取ったり取られたり戦いの真最中だったので、ポルトガル人によって持ち込まれた「鉄砲」はすぐに日本国中に広まり、多くの大名たちが自分たちのものにしていました。日本人も鉄砲を持っていたおかげで、少人数のポルトガル人、スペイン人達に簡単には負けない戦力になっていたとも言えます。

 16世紀ポルトガルはインドネシアを拠点とし、スペインはフィリピンを征服、両国は競いあって貿易の利潤を追求していました。(*1)

 1590年頃スペインがフィリピン征服を終え一段落、次に日本へ本格的に進出しようと思った時、ちょうど秀吉が日本統一に成功していました。日本統一がもう少し遅れていたら、どうなっていたかわかりません。国内が分裂状態の時は、外国勢力に簡単に征服されてしまいます。

 

[ 江戸時代初め ]

☆3  江戸時代はじめ、貿易相手国としてイギリスではなく「オランダ」を選んだ

 1600年3月「関ケ原の戦い」の半年前、オランダ船が日本に到着(ほとんど漂着)。その船の中にイギリス人のウィリアム・アダムズが乗っていました。徳川家康は何度もアダムズと会って話しているうちにアダムズを信頼するようになり、外交問題の相談相手として優遇し、領地を与え「サムライ」にまでしました。

( ウィリアム・アダムズについては「10『ガリバー旅行記』のモデルになったイギリス人は誰?」参照 )

 家康は初め、秀吉の朝鮮出兵のために疲弊した経済を立て直すため外国貿易を奨励していました。しかしキリスト教の勢力がしだいに大きくなってくると、やはりキリスト教は危ない、ということになり、キリスト教は禁止、外国貿易も他の大名は禁止。徳川幕府だけが貿易の利益を独占できるよう、幕府だけがヨーロッパの一国と貿易するということにしました。

 徳川幕府にとって、ポルトガル、スペインはカトリック布教に熱心で、支配されてしまうかもしれないという不安があり、やはり危険。貿易相手としてはプロテスタントで布教に熱心ではないイギリスかオランダが良い。アダムズがイギリス人なので貿易相手国を一国選ぶならイギリスにしようかと家康は考えていましたが、アダムズは、尊大な態度をとるイギリス人とは仲が悪く、職人肌のオランダ人と仲がよかったのです。同じ船でやってきて同じように家康に用いられていたヤン・ヨーステンもオランダ人です。

 貿易相手国を決めるさいにはアダムズやヤン・ヨーステンの意見がかなり家康に影響を与えたと思われます。

(「11.江戸時代ヨーロッパの中でオランダだけが貿易相手国になったのはなぜ?」参照 )

 江戸時代を通してヨーロッパの唯一の貿易相手国に、後に大国になるイギリスではなく、後にはイギリスとの戦争に敗れ、海外市場での覇権を失っていくオランダを選んだというのは、何という幸運な偶然だったでしょう。

 

・・・  江戸時代 約250年が過ぎ  ・・・

[ 幕末~明治維新 ]

☆4  1856年「ハリス」が初代アメリカ総領事   ( 明治維新の12年前 )

 1853年ペリーの黒船がやって来て、その翌年、国同士がともかく仲良くしようという「日米和親条約」を結び、一応開国。開国後、タウンゼント・ハリスが米国総領事として伊豆半島の下田に着任しました。当時日本と同じように鎖国していた中国では、イギリスが武力で開国を迫りアヘン戦争を起こし、清国が敗れ香港を取られ半植民地化の端緒となりました(1842年)。アメリカの世論も、中国と同様日本も武力で開国させるべきという意見が強かったのです。

 たまたまアメリカの大統領がピアスに替わり平和政策をとるようになったことと、ハリスという人が独自の見識と抱負をもった稀な人だったことが幸いしました。

「唐人お吉(とうじんおきち)」で有名なハリスですが、本来お堅い禁欲的なプロテスタントで生涯独身でした。

ハリス

 ハリスは下田の玉泉寺で3年余り過ごしましたが、持病の胃潰瘍の上、日本側との果てしない交渉のストレスも重なって病気になり「看護婦」を頼みました。しかし幕府側は「女性」を求められたと気をまわし、下田一の人気芸者だったお吉を説得してハリスのもとへ行かせたのです。しかし、ハリスの方はまったくそんなつもりはないので、お吉はすぐにお払い箱になったといいます。

お吉は「唐人お吉」として有名になりすぎ、世間の偏見のため不幸な一生を送ることになってしまいしまいました。(*2)

 

☆5  1861年 ロシアの黒船が対馬(つしま)の港を占拠「小栗上野介忠順(おぐり こうづけのすけ ただまさ)」が会見相手      ( 明治維新の7年前 )

 1854年の開国から、アメリカ、イギリス、フランス、ロシアが、日本をわがものにしようと虎視眈々と狙っていました。ロシアは常に南下政策のため日本に足がかりを求めていましたが、遂に1861年対馬にロシアの黒船がやってきて、尾崎浦に入って港を占拠、軍事基地を造ろうとしました。

 対馬側が言うことをきかないと、黒船から陸へ向けて大砲をぶっぱなすので、対馬側はなすすべなし。しかし対馬藩は、幕府の代表者と交渉してくれという態度を貫きました。

 その時、ポサドニック号のビリレフ艦長の会見相手として江戸から対馬にやってきたのは、幕府代表の外国奉行、小栗上野介。アメリカから帰ったばかりの小栗は命がけの姿勢でのぞみ、ビリレフの脅しにのらず、交渉打ち切り。

 この時の交渉役が小栗ではなく他の幕府役人だったら、ロシア側の脅しに屈し、対馬がロシアの租借地となっていたかもしれません。

 その後も、イギリス公使オールコック、フランス公使ベルクールなどを巻き込んで綱渡りのような駆け引きの中で、結局ロシア艦隊は6か月の占拠のあと引き上げて行きました。(*3)

小栗上野介

 小栗上野介は、アメリカから「ネジ」を持ち帰ったことでも有名ですが、アメリカを見てきたので、「製鉄」の重要性を見抜き、横須賀に「造船所(製鉄所)」を作る礎を築きました。時代を見る先見性を持ち、強い信念の人でした。しかし、幕府側であったため1868年新政府軍に殺されてしまいました。

 

☆6 1864年 イギリスが「彦島」を要求したが「高杉晋作」が拒否   ( 明治維新の4年前 )

 長州がイギリス(英仏米蘭連合)との下関戦争で大敗北し条約を結ぶ時、イギリス側から関門海峡の入り口にある「彦島をよこせ」と要求されましたが、長州側の代表として赴いた高杉晋作が断固として「うまく」はねつけたのです。もしこの時「彦島」をイギリスに取られていたら、イギリスの租借地になっていたかもしれません。(この時の通訳が伊藤博文で、後にその時のことを述べています。)

 なぜ負けた長州側の高杉晋作が必死の覚悟で強く拒否したかというと、その2年前1862年桂小五郎のはからいで幕府使節随行員として上海へ行き、植民地の悲惨な実情を見ていたからです。

高杉晋作

 彼は欧米列強の下での植民地「上海」のひどい状態に大変なショックを受け、危機感を感じていました。この時薩摩藩から水夫待遇でしたが一緒に行っていたのが五代友厚(ごだいともあつ)でした。(*4)

 外の世界を見てきたということが彼らの目を開かせることになったのです。

 

☆7  1868年 (慶応4年)1月3日  鳥羽伏見の戦いで「 徳川慶喜」が逃げた    (江戸城明け渡しは同じ年の4月11日)

 旧幕府軍は本営大坂城から京都へ進撃する途中、京都南郊の鳥羽伏見で、長州・薩摩の討幕軍と武力衝突。旧幕府軍の方が勝てる可能性があったのに、なぜ15代将軍・徳川慶喜は急に大坂城から出て、船で江戸へ逃げたのかとさんざん非難されました。

 慶喜は、その前フランスのロッシュ公使から「銃5万丁とフランス軍兵士2万人ただちに貸すから、勝ったら薩摩をよこせ」と言われ、フランスに助力を求めようかと思いました。しかし、イギリスのパークスも、倒幕軍の西郷に武器を提供しようともちかけ「勝ったら兵庫港をイギリス領に」と言っている、というのを聞きました。このままではフランスとイギリスの戦いになって「日本」が分裂してしまう。

徳川慶喜

 慶喜は「日本」のためには自分が負けるしかない、と決断したと思われます。慶喜自身は終生沈黙を守りましたが。

 最後のところでは、西郷も慶喜も日本が外国のいいなりになってはならない、というところで同じ気持ちだったのでしょう。(*5)

 ギリギリのところで日本は分裂せずにすみました。

 

☆8 「 榎本武揚」の 函館戦争 1868年  北海道がロシアに取られそうになる

 北海道の函館まで逃れて行った旧幕府軍に、ロシアは援助をもちかけ、もし勝ったら北海道をロシア領にと迫りました。この時も榎本武揚が最後の段階でロシアの申し出を断り、新政府軍に降伏しました。

 

・・・  明治 ~ 大正 ~ 昭和20年  ( 1945年 )・・・

[ 第2次世界大戦後 ]

☆9  1945年「ソ連」に北海道を取られそうになった

 日本はソ連と「日ソ中立条約」(1941) を結んでいたので、まさかソ連が攻めて来るとは思ってもいませんでした。しかし、ソ連のスターリンは1945年の2月に行われたヤルタ会談で、ドイツとの西部戦線の片がついたら、軍隊を東へ移動させ日本に対して参戦するということを決めていました。

 騙し合いの外交戦の中で、日本はひたすらソ連を信じ、米英との戦争終結の斡旋をソ連に必死に頼もうとしていたのです。

 そこへ1945年8月9日ソ連は第2次世界大戦終結ギリギリに参戦し、突然国境を越えて満州へ、そして南サハリンへなだれこんできました。8月15日に昭和天皇が終戦宣言、ポツダム宣言受諾を発表したので、ソ連軍はあわてて千島列島(クリール諸島)上陸作戦も展開。すでに降伏している日本軍に対して武力で侵攻し、8月25日には南サハリンを占拠。9月2日の正式の降伏文書調印式までにできるだけ支配下の領土を広げようと、クリール諸島も次々占拠していきました。

 トルーマン米大統領はクリールの帰属は講和会議で決定するべきだと言っていたので、スターリンは軍事行動で急いで実効支配してしまえと、9月5日最後の「歯舞(はぼまい)諸島」を占拠するまで戦争を止めませんでした。

 さらにスターリンは北海道(釧路と留萌を結ぶ線の北部分)も本気で、アメリカとの駆け引きの中で手に入れようとしていましたが、北海道はトルーマンが断固として拒否しました。

 北海道を断念せざるをえなかったスターリンは、北海道北部から動員しようとしていた50万の日本人労働力の代わりに、満州、朝鮮、サハリン、クリールで捕らえられた日本人捕虜を強制労働させるためシベリアへ連行しました。

 (この命令は、兵士の本国帰還を規定したポツダム宣言に違反するものでした。)

 64万人の日本人が極寒のシベリアの収容所で10年以上の労働を強いられ、6万人以上が亡くなりました。  (*6)

 北海道は取られずにすみましたが、大きな犠牲を払わされてしまいました。

 

☆10  第2次世界大戦後、日本にやって来た占領軍は「アメリカ」だった

 日本が負けを認め、アメリカ軍が日本を占領するために乗り込んできました。アメリカは自分の国にとって都合が良いように日本を「民主主義」に変えようとしました。初めて外国に支配されることになった日本人はどうなることかと不安でしたが、アメリカ占領軍は「農地改革」、「財閥解体」、「男女平等」、「家族制度」を新しくするなど、日本人が自分たちでやりとげるのは困難なことを、勝者の命令「鶴の一声」でやってしまいました。

 今のアメリカはずいぶん変わってしまったようですが、アメリカ人が「民主主義」を信じていた時代の理想主義と日本人の従順さがうまくあった歴史上珍しい例でしょうか。日本側は負けたおかげで古いものを一新できたところがあるのは否めません。平和な時に自分達だけの力で古いものを改革するのは大変難しいことです。

フィリピンは未だに大地主制を変えることができません。

・・・・・・

 

☆11 16世紀より前の「元寇」

これまで16世紀からの歴史を見てきましたが、16世紀より前の時代にさかのぼってみると  ・・・ 13世紀にも  ・・・

 1274年1281年の2度の元寇の時、陸続きの高麗はモンゴルに従属せざるをえませんでしたが、日本は対馬をとられそうになったものの、あわやというところで侵略されずにすんだ、ということもありました。(*7)

 

☆12  理由-まとめ

 こうして見てくると、「なぜ日本は植民地にならなかったのか?」という理由は、島国で海に守られていたという「地理的条件」や、何度も危険な状況に陥りながら、その時々の登場人物が偶然「良い人」だったり、歴史のタイミングがラッキーだったり、様々な「偶然」と「幸運」のおかげで切り抜けてきたように見えます。しかし、それだけではなく、外国に侵略されてはいけない、という「強い思い」が「ギリギリの綱渡り」を成功させてきたのでしょう。

 そして、多くの場合「日本が統一されていたから」です。江戸時代徳川幕府の希望通り、国は鎖国状態にして幕府だけがオランダ一国だけと貿易できたのは、日本側が1つにまとまっていたのに対して、ヨーロッパ側の4か国が競いあっていて足の引っ張り合いをしていたからです。1つにまとまっている方が当然強いのです。

 インドのようにバラバラの王国が多く存在していたところはすぐにイギリスに支配されてしまいました。

 

☆13  日本が一度も外国の植民地になって苦しんだことがないということは幸いなことではありますが、一度も苦しい経験をしたことがないということは、他の弱い立場で悔しい思いをしている人達の気持ちがわからないということにもなります。(*8)

 例えば、モンゴルは第2次世界大戦後も、多くの土地が今中国の中の「内モンゴル」になっています。内モンゴルのモンゴル人は、モンゴル人なのに国は中国になっているのです。

 チベットなど、他にも自分たちの主権が持てないところは様々な所に多くあります。

 他の国のことを理解するには、歴史を知り、自分たちのことだけでなく相手の立場に立って長い目で客観的に世界を見ることができる想像力が必要です。歴史の時間を「たての軸」として、また世界の国々を地理的に広く「横の軸」として、大きな目で見ることができるようになりたいものです。

 歴史は学問的な勉強だけでなく、歴史小説やドラマなどの「人間の物語」として知ると、歴史が身近な興味深いものになると思います。今まで歩いてきた道を知らなければ、これから行く道を決めることはできません。

 現在でも政治の舞台裏では「見えない駆け引き」をしている人がいるのかもしれません。

 

ひとことで言うと

 日本が歴史上ずっと独立国でいられたのは、「地理的条件」だけではなく、大体国が1つに「統一されていた」ことと、多くの先人たちの「必死の覚悟と努力、ギリギリの選択」があったから、ということが歴史を見るとよくわかります。

 

――――   (  * )  ――――

 

*1 1521年太平洋の赤道の北を東から西に流れる北太平洋海流にのってやってきたマゼラン船隊がフィリピンに初めて現れてから、フィリピンの島々が次々に征服されてしまいました。

 そもそもフィリピンという国名は1542年スペイン皇太子フィリペ2世にちなんで名づけられたもの。それから300年以上スペインの植民地になり直接統治されました。1902年スペインがアメリカとの戦争に負けて、今度はアメリカの植民地になり、第2次世界大戦まで続き、やっと独立したのは1946年。

*2 「安吾史譚」  坂口安吾著   河出文庫  1988年

「逆説の日本史 18」 井沢元彦著 小学館  2012年  (ハリスの写真)

*3 「星火瞬く」  葉室麟著   講談社   2011年

「逆説の日本史 19」 井沢元彦著  小学館  2013年 (小栗上野介の写真)

*4 「逆説の日本史20」井沢元彦著 小学館 2013年(高杉晋作、徳川慶喜の写真)

*5 「正妻 慶喜と美賀子」   林真理子著  講談社  2013年

「レオン・ロッシュの選択 幕末日本とフランス外交」 鳴岩宗三著  創元社

*6 「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」 長谷川毅著(ロシア史・日ロ関係研究者、カリフォルニア大学教授 ) 日本語版 中央公論新社 2006年 459~493ページ ( “Racing the Enemy : Stalin, Truman, and the surrender of Japan”  ハーバード大学出版 2005年 )

*7「襲来」  帚木蓬生著   講談社   2018年

*8  日本の中では、沖縄や明治維新後の会津など苦しい立場で悔しい思いをしてきた人たちはいますが・・・