2. 日本はなぜ「日本」という国名になった?  ≪ 日出処 ≫

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☆1 「日のもと」

 日本語では、日本のことを「にほん」あるいは「にっぽん」といいます。音がどちらでもいいというのは、音を聞いた時すぐにその漢字を頭に描いて「日本」という漢字で理解するからです。 漢字語では「日本」ですが、やまとことばでは「日のもと」で、このネーミングが作られたのは、7世紀の大化の改新の頃だといわれています。(*1)

 

☆2 「やまと」のクニ

 日本列島には何千年にもわたって北アジア(モンゴル、オホーツク)、ポリネシア、インドネシア、東南アジア、南中国、朝鮮半島などから人々が渡って来て、徐々に適当に混ざりあって原日本人が作られていきました。(*2)

 あとから渡って来た人々と先に住んでいた民との勢力争いや、部族間の抗争を繰り返していくうち、しだいに各地に部族国家のような「クニ」のまとまりができていきました。(*3)「いずも」(島根)、「こし」(新潟 日本海側)、「つくし」(北九州)、「きび」(岡山)、「やまと」(奈良)、「けぬ」(群馬、栃木)などが主な「クニ」でした。(*4)

 朝鮮半島では、4世紀から7世紀まで三国時代といわれ、百済、新羅、高句麗、(カラ/カヤ)が繰り返し戦っていました。4,5世紀、戦いが起こるたびに負けた側のヒトとモノが日本列島に大量に流入してくるようになり、その亡命者たちが帰化人となって、発展の原動力にもなりました。

中でも「やまと」のクニは、4世紀カラや百済から多くの渡来人と先進文物を受け入れ、勢力が大きくなっていき、しだいにまわりの国を服属させていきました。

6世紀の初め北九州の「つくし」も遂に「やまと」に屈しました。

 

☆3  聖徳太子(7世紀初め)

 中国では、6世紀終わり(589年)に「隋」が中国を統一し、そのあと「唐」(618~907)が強力になりました。統一のあとは大体拡大路線に向かうものです。

 「やまと」のクニも、東アジアの国際情勢を見るに、自分たちの王家を中心とする日本列島の統一国家を作りたいと思うようになりました。そのためには、それぞれの出身地のクダラ系、シラギ系(*5)、コマ系などと争っていないで、もっと後ろの大きな文化を持つ中国に目を向け、直接交流し、超党派の国を作ろうと考えました。(*6)

 それで、中国との交流は100年以上途絶えていたのですが、600年「やまと」の聖徳太子が朝鮮半島を通さずに直接「隋」に遣隋使を送りました。その時は初めてだったので自分たちの未熟さを思い知らされましたが、607年に再び満を持して遣隋使を送った時、「やまと」のクニこそが他のクニグニの上に立つ日本の代表であるということを示し、同時に「隋」と対等の独立国であるという意識で、遣隋使が携えて行った書状の中に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書いたのです。(*7)

 それまで中国からは周辺諸国を見下した名づけ方で「倭国」(*8)と呼ばれていました。しかし、しだいに漢字の知識も増し「倭」という字が「おとろえる」という意味の蔑称であることを知ると、しだいに高まりつつあった新興国家の誇りを精一杯表現して、中国より東に位置することにかけて「日出処天子」という言葉を用いたのでしょう。

 7世紀半ばの遣唐使の時代には、この「日出処」をもとにして、統一国家の名を「日本」にしたということが中国の歴史書に見られます。(*1)中国向けの自作新統一国家名、これが「日本」の始まりです。

 

☆4 好きな国名がつけられた

 「日出処」とか「日本」というようなネーミングを見た隋の皇帝は怒ったでしょう。しかし、そのとき隋は高句麗と戦っており、日本が高句麗側にまわっては困るという事情がありました。いろいろな背景があったにせよ、このような大胆な名をつけることができたのは、日本が島国で海に守られていたからです。中国の地続きの朝鮮半島では、大きなことを言うとすぐに攻め込まれてしまうので、微妙な政治感覚が必要でした。

 韓国と日本は、同種の文化を持ち、似ている所も多いのですが、ユーラシア大陸の東の端で異民族の攻防の歴史ともいえる朝鮮半島と、他民族の脅威をほとんど感じないですんだ島国日本の、地理的条件が非常に異なるところです。

 朝鮮半島では、勝つか、負けて逃げるか、2つに1つですが、日本ではさまざまな人が寄り集まってきて、もうこれ以上逃げていくところはないという行き止まりだったので、皆がなんとか調和して暮らしていくより他ありませんでした。「和」を尊ぶしかなかったのです。

 

☆5 なぜ「大和」を「やまと」と読む?

 中国からつけられた字「倭」をきらって、日本語では同じ音で意味が感じの良い「和」に変え「大(great)」をつけて、やまとでは「やまと」のことを漢字で書くとき「大和」と書いたことによるものです。

 現在でも「和」は、和服、和食、和菓子、和室、和洋折衷など、漢字の熟語を作る場合に用いられます。

 

ひとことで言うと

 7世紀「やまとのくに」が中国に遣隋使、遣唐使を送る時、日本列島の統一国家名として、中国の東にあることをかけて「日のもと」と自称したことによります。

 

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*1 中国の歴史書『旧唐書(くとうじょ)日本伝』には、「日本国は倭国の別称なり その国日辺にあるをもって故に 日本をもって名をなす」とあります。648年

*2 「 8. 日本人はどこからやってきた?」参照

*3 『日本の歴史 03』 熊谷公男  講談社  2001年

*4 後に「こし」のクニは「越の国」という漢字があてられたので、「越前(福井)、越中(富山)、越後(新潟)」になりました。京都に近い方から「前」「中」「後」。

「けぬ」のクニは後に「かみつけぬ」のクニ(群馬)と「しもつけぬ」のクニ(栃木)に分けられ、漢字語では「上毛野国」「下毛野国」と表され、そのあと省略して「上野(かみつけ→こうづけ)」「下野(しもつけ)」になりました。それで、「赤穂浪士」に出て来る「吉良上野介」は「きらこうづけのすけ」と読みます。群馬県は「上州」になり、群馬県(上毛野国)の高崎と栃木県(下毛野国)の小山をつなぐJRは「両毛線」になるわけです。川の名前は「鬼怒川(きぬがわ)」になりました。

「つ」というのは、所有の「の」の意味です。「まつげ(目の毛)」「沖つ白波」のように。

*5 「新羅」は韓国語では「Silla」のような音ですが、日本語で「シラギ」と読むのは、日本書紀編纂の際、百済人の学者が多くかかわっていて、自分たちの国を滅ぼした恨みから「新羅の奴ら」という意味の「シラギ」と読ませたから、と韓国の朴炳植氏は言っているそうです。百済は韓国語では「ペクチェ」ですが、「クン・ナラ(大国)」から「クダラ」と読ませたという説もあるそうです。  『逆説の日本史2』 井沢元彦著 小学館 1994年

*6 『安吾 新日本地理』  坂口安吾  河出文庫  1988年

*7 『隋書倭国伝』より

*8 自分のことを「我wa」のように言っていたからではないか、という説が有力です。