19. なぜ平将門の首塚は今でも丸の内にある? ≪ 怨霊信仰 ≫

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☆1  「将門塚」のたたり!

    東京駅の皇居側、大手門のすぐ近く、丸ノ内の高層ビル群の谷間に「将門塚」が、現在でもそこだけ「やすらぎの異空間」のように存在していました。

皇居側から日本橋方面への道のわきにあり
緑の多いやすらぎのスポットでした
2020年までの将門塚

「やすらぎの緑のスポット」だった「将門塚」は、2021年5月にリニューアルされてモダンなスッキリしたスポットに変わってしまいました。

  常に時代にあわせて改修されてきたのですが、

そもそも、なぜ、こんな所に「将門塚」が?

 

「将門塚」があった所は、江戸時代は大名屋敷の中にあり、明治時代になると、そこは官庁街の大蔵省の敷地の中になりました。

  1923年9月 関東大震災のため、塚も大蔵省も全焼。

 調査の結果、石棺も盗掘され何もなかったので、塚は取り崩され仮庁舎を建てました。

 すると、大蔵大臣 早速整爾(はやみせいじ)が病気になり1926年9月死亡。現職の矢橋管財局課長その他10数人も死亡。 他にも多くの人が仮庁舎内で転倒して怪我をしたり・・・

タタリじゃー!  ということになり、ついに

 1928年 塚の跡に礎石から復元し、慰霊祭が取り行われました。

 1945年 第二次世界大戦敗戦後、米軍がこのあたりを整地して駐車場を造ろうとしたら、工事用のブルドーザーを運転していた日本人が墓のようなものの前で突然転落して死亡。      (*1)

 「将門塚」に手を出すとタタリがある・・・! ということで、今日まで無事に残っているのです。現在も大手町のビジネス街の中で、きれいに整備され、多くの人が訪れ手を合わせています。

 

☆2   平将門(たいらのまさかど)の時代は?

平安時代中期10世紀、藤原氏の摂関政治の時代。

 京の都の支配階級の貴族、公家(くげ)達は、地方に「荘園」という名の私有地をドンドン増やし、そこから得られる税で、自分たちの世界だけの贅沢な優雅な暮らしに明け暮れていました。京都の外の地方のことなど税を取る所ぐらいにしか思っていなかったのです。

 天皇家では、子供や親族が増えると面倒になるので、その人たちを国司などに任命し、地方へ追いやろうとしました。王臣の子孫を「桓武平氏」(*2)や「嵯峨源氏」(*3)などとして臣籍降下させたのです。

 京都から田舎へ落ちて行くのは嫌であっても、国司として赴任すると、税を集め都に一定納めれば後は蓄財でき、経済的には大きな利益があるので、広い土地を求めて喜んで行く人たちもいました。原野を開墾して農地を広げれば私有地にでき、自分の土地を守るため武装したのが武士の始まりです。

 

☆3 平将門(903~940)のファミリーとは?

 将門の祖父、高望(たかもち)王は、桓武天皇の孫で、「平(たいら)」の姓を賜って臣籍降下。東国の国司、上総介(かずさのすけ)(*4)に任ぜられ、一族郎党を引き連れ、坂東(ばんどう、今の関東地方)に住みつきました。

 後に高望王は自分の領地を5人の息子に分け与えました。 3男の良持が、将門の父で、事実上の下総介(*4)となって国府台に入り、湖沼が多い所で米作に向いていない土地だったので、広大な原野に馬の牧場を営んでいました。

将門は小さい頃から、人一倍力が強く又武勇に優れた父にあこがれていました。

 しかし、父は鎮守府将軍として陸奥(みちのく、むつ)へ赴任している間に病で死亡。その時、将門はまだ15歳。伯父たちが父の代わりに領地を預かってくれることになりました。

 当時、有力豪族の子弟は都へのぼり、公家に仕え、出世して官位を得、箔をつけて坂東へ帰って来る、というのが多かったので、将門も伯父たちにすすめられ、京へのぼりました。

 将門は、父の長兄の長男、つまり従兄の平貞盛と共に、京で有力公家の藤原忠平に仕えました。 といっても当時の武士は、公家のためのガードマンや下働きのように扱われ、公家に「さぶらう(侍う)」(目上の人のそばで仕えるという意味でサムライの語源)という情けない身分でした。

 人づきあいのうまい貞盛は京の公家の間でうまく立ち回ることができましたが、武闘派の将門は京の風があわず、12年我慢しましたが、ついに無位無官のまま東国へ帰ってきました。

 27歳になった将門が故郷に帰って見たものは、父の遺領が伯父たちに奪われていた現実でした。

 父の遺領を返してもらうため伯父たちと戦うことになり、戦の中で貞盛の父も亡くなってしまいました。他の伯父たちも敵になってしまいましたが、鬼神のような将門の戦いぶり、向かうところ敵なしでした。

 

☆4  将門への期待

 都の「官の権威」に頼り、高慢な態度の国司や地方領主に苦しめられてきた東国の人たちは、将門の新しい力に期待するようになりました。

 なぜ、我らは都の公家どもから搾取されなければならないのか。公家たちは、飢饉の時でも変わらず税を徴収するなど、飢え苦しむ民のことを考えようともしない。このどうしようもない世の中を将門なら何とかしてくれるのではないか。将門に対して熱狂的な支持が集まり、多くの人が将門を頼ってきました。(*5)

 将門は勢いに乗り、関東8か国の国府をおとし、新しい国司を任命、京の帝に反逆することを宣言。

 坂東を統一して、京都の帝・朝廷の下ではない新しい自分たちの世界を築きたい、という夢!

 しかし、最後は、生涯の因縁の友であり、敵となった貞盛と、下野(しもつけ)(*6)の藤原秀郷との「朝廷軍」に討たれ、帝に反抗した「逆賊」とされてしまいました。

京都に対抗しようとした夢もやぶれ、最後は無念な死で終わってしまった将門。

  将門の時代(10C)は東国の武士が力を持ち始めた最初の段階で、まだ武士の世界は実現できませんでしたが、東国でしだいに力をたくわえ、250年後(12C)に源頼朝が鎌倉に武士の幕府を開く道につながっていきました。

 

☆5  京都に対抗する関東のシンボルとして

 公家・貴族が上で、武士は公家の番犬とまで蔑まれていた東国の武士たちに、初めて武士の誇りを持たせてくれた将門。強烈なキャラクターとしての「将門」は東国の人たちの心に、自分たちも京都と対等になれる同じ人間だと勇気を与えてくれたのです。しだいに坂東武者の間で「将門」は偶像化されていきました。

現在、将門ゆかりの場所は、東京や本拠地だった常陸や下総など関東一円に多く存在しています。 

 戦で敗れた後、京都に運ばれ晒された将門の首は、誰かがひそかに持ち帰り、旧領の下総国は避け、当時江戸湾の奥の辺境、武蔵国豊島郡芝崎(今の大手町)に葬ったと言われます。その頃、今の大手町は「辺境」だったのです。(*7)

 伝説では、ある夜、首は光を放って自ら東の方へ飛び去った。その時、ものすごい音が鳴り響き、大地は鳴動した、と・・・

 実際、当時、富士山が噴火したり(937)、大地震があったり(938)、凶作や飢饉など、いろいろ災害が多かったのです。

 天変地異が続いた時、それを無念の死をとげた人間の祟りと考え、その人を祀ることで災いを鎮めようとすることは、菅原道真の例など古くからよくあることでした。  (*8)

 

☆6  神田明神が将門のために作られた

 将門の死から360年ほど経った 鎌倉時代末期1307年、この地を訪れた時宗の真教上人が将門に「蓮阿弥陀仏」という法号を与え、丁重に供養しました。これが現在の将門塚の原形です。

 そして、上人は将門塚のそばにあった社が荒れ果てているのを修復し、将門の霊を祀って「神田明神」と改称しました。今の東京神田にある神田明神の起こりです。

 しかし、徳川家康が江戸に入って城を築いた時(1600年頃)、城の近くに神社があっては家臣の屋敷などを建てるのに不便だと移転を命じ、神田明神は少し北の今の場所に移動させ、塚だけはそのままの形で同じ場所に残されました。(*9)

神田明神

 つまり、前述のとおり、江戸時代の「将門塚」は大名屋敷の中にあり、明治になって大蔵省の敷地内になり、戦後米軍が駐車場を造ろうとし、そして、現在、東京のど真ん中の丸の内の高層ビル群の真ん中に、「首塚」だけは1000年以上同じ場所にとどまっているのです。

前の道のつきあたりは皇居の緑

ひとことで言うと

  京都の権威に初めて逆らい、関東の人たちのために戦って無念のうちに敗れた将門は、関東武士の誇りであり、いつの時代も、権力・権威に押しつぶされそうになった人々の心の拠り所として、人々の心の中に生き続けてきました。そして、まわりの景色が変わった今も、大切に大手町で祀られています。

 

   ―――  *  ---

*1  『逆説の日本史  4』  井沢元彦  小学館   1998年

*2  桓武天皇は京都の平安京に都を移した第50代天皇 (在位781~806)

*3  嵯峨天皇(在位809~823)は桓武天皇の第2皇子。50人もの子供を作ったので、親族の数が多くなりすぎ、母親の身分が低い者たちをひとまとめに臣籍降下させて「源」の姓を与えました。

*4  上総(かずさ)と下総(しもうさ)

   「ふさ(総)のクニ」を2つに分け、京都に近い方(千葉県中央部)を「上(かみ)つふさ」で→「かずさ」、遠い方(千葉県北部)を「下(しも)つふさ」で→「しもうさ」と名付けました。「つ」は「の」の意味。

   上総守(かずさのかみ)の「守(かみ)」は長官のような地位で、その下で「たすける」副官が「介(すけ)」。「守(かみ)」は京都にいて現地には行かないので、現地では「介(すけ)」が最上位の役職になります。

*5  『将門』  矢野隆   PHP研究所   2013年

*6  「下野(しもつけ)のクニ」の名については「15.中国地方はなぜ中国?」の中の注3を参照。

    もとは「けぬのクニ」でしたが、京都に近い方(群馬)が「かみつけぬのクニ」で→「こうずけ」、遠い方(栃木)が「しもつけぬのクニ」で→「しもつけ」になりました。

*7 九段下の靖国神社のすぐ近くにも「築土(つくど)神社」という将門ゆかりの神社があります。現在はまわりのビル群に押しつぶされそうになりながらも、デンと存続しています。

 こちらの神社は、京都から持ち帰られた将門の首を武蔵国豊島郡上平河村津久戸 (現在の大手町)の観音堂に祀って津久戸神社と称したのが始まりとされ、江戸城を初めて大きくした太田道灌 (15C)が江戸城の北西に社殿を造営、江戸城の鎮守神としてお祀りしたと言われています。

*8  怨霊信仰     『逆説の日本史 4』より

    最も有名なものは平安時代の菅原道真の「天神様」です。道真(845~903)は藤原一族に無実の罪で陥れられ、九州の太宰府に左遷され、無念のうちに亡くなりました。そのあと、京都では雷や嵐が起こると菅原道真の祟りではないかと恐れ、道真に高い官位を与え北野天満宮を建立、霊が鎮まってくれるよう祈りました。「タタル」というのは、自分を陥れた相手を、死んでも恨み、相手に悪いことをして仕返しをしようとすることです。

  勝った側が、敗れた側の人の怨霊のタタリを恐れ、その人の霊が安らかに鎮まってくれるよう大きな建造物を建てたりする怨霊信仰は、神代の昔からありました。

  出雲大社、聖徳太子の法隆寺、長屋王の乱のあとの藤原氏4兄弟の病死、足利尊氏が後醍醐天皇のために建てた天竜寺など、日本の歴史の中では枚挙にいとまがないほどです。

  古代の人にとって最も恐れた不幸の原因は、伝染病より、事故より、怨霊のタタリ。身に覚えのある人はなおさらです。

  怨霊信仰については、梅原猛氏、井沢元彦氏などによって説かれ、近年しだいに認められてきました。

*9  神田明神の祭神が将門でなかった時代があります。

    神田明神は、平将門を祀ったものであり、関東では最も古くから怨霊神として信仰されていました。しかし、明治時代になって天皇が東京に移って来ると、天皇家に反逆した人間を神として祀るのはよくないということになり、急に将門の霊を別殿に移し、別の少彦名命という神が祭神である、ということにしてしまいました。

  戦後になって皇国史観が廃され、歴史上の人物が再評価されるようになり、やっと1984年 将門は神田明神に復帰することになりました。  『逆説の日本史  4』   井沢元彦