5. 日本人が年末になるとベートーベンの「第九」を歌うのはなぜ?  ≪ 松江豊寿坂東収容所長 ≫

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 毎年、年末になるとあちらこちらでベートーベンの「第九交響曲」“ミミファソ ソファミレ ドドレミ ミレレ” と歌われます。理由は諸説あり、いろいろな要因が一緒になって今のように盛んになったと思われますが、主に次のようなことが挙げられます。

 

☆1  第二次世界大戦のあとのオーケストラ

 いつの時代もオーケストラの経営というものは難しいものでしょうが、第二次世界大戦敗戦後は特に大変だったでしょう。経営難の日本交響楽団(現NHK 交響楽団)が1947年12月のうち3夜「第九」の演奏会を開いたところ、多くの観客が集まったということがありました。

 合唱の部分は明るいし、やさしい覚えやすいメロディーなので、アマチュアコーラスでも参加できます。多くのメンバーの家族、知人が来てくれるのでチケットもよく売れるということで、どんどん年末に「第九」という習慣が広がっていきました。

 

☆2 第一次世界大戦中 ドイツ軍兵士の収容所

  時代をさかのぼって第一次世界大戦中、日本軍に捕らわれたドイツ軍兵士たちが、徳島の収容所で自分たちの国のベートーベンの曲を演奏することを許され、日本人の前で演奏したという話が伝えられています。戦争中の収容所というと暗く残酷でひどい環境が想像されますが、その中の数少ない麗しい話として語りつがれています。

 1914年、第一次世界大戦の初め、同盟国イギリスの要請で日本はドイツに宣戦布告、ドイツの租借地だった中国の青島(チンタオ)を攻撃しました。3万の圧倒的兵力で攻撃し、ドイツは12日間で降伏。青島で捕虜になったドイツ兵4600名が日本へ連れてこられました。

 全国12か所の収容所に収容され、その中にはひどい扱いをした収容所長もいたでしょうが、徳島収容所の所長だった松江豊寿(とよひさ)中佐(44歳)は「この兵士たちは祖国のために戦ったのだから人道的に接するべきだ」という信念を持って、捕虜たちを人間として大切に扱いました。約200人の兵士の中には様々な技術をもった義勇兵が多かったので、パン作り、洋服の仕立て、木工制作など、できる限り彼らの能力を発揮できる場を作りました。

 スポーツも、水泳、サッカーなどを、決められた範囲内ではあるものの、自由にさせました。収容所の隣にあった徳島中学に通っていた中野好夫はドイツ人たちからサッカーを習ったそうです。(*1)

 松江豊寿所長は音楽好きだったので、徳島オーケストラ、合唱団も作りました。

 

☆3 バンドー収容所の松江所長

 3年後の1917年には四国の他の収容所の捕虜たちも徳島に集められ、約1000人が徳島市北西の広い場所に新しく作られた板東(ばんどう)俘虜収容所に収容されました。(*2)

松江中佐

 そして松江豊寿が所長になり、約2年8か月の間あらゆる分野で活発に活動することを許可しました。収容所の中庭には、くつ屋、写真屋、理容院、アイスクリーム屋など40軒も店があり、新聞も発行されていました。オーケストラ、合唱団もあり、彼らがベートーベンの「第九」を演奏したのが、日本で「第九」が演奏された始まりだとよく言われます。近所の日本人たちとの交流もあり「ドイツさん」と親しみをもって呼ばれていたそうです。

 

☆4 なぜこの時代に、陸軍上層部の反対を抑えてまで、松江中佐は信念をもってドイツ兵たちに接することができたのでしょうか

 松江豊寿の父は明治維新で「賊軍」となってしまった「会津」の人で、明治時代「会津の屈辱」を心の痛みとしていました。豊寿は軍人になりましたが(会津人はほとんど警察官か軍人にしかなれなかった)、会津人は軍隊内でも差別されていました。会津藩士の子として父を見て育った豊寿は、降伏した者の屈辱と悲しみを身にしみて知っていたのです。

官軍に一片の武士の情けがあれば・・・!

 

☆5 戦争後

 1918年、第一次世界大戦が終わってドイツに帰った板東収容所出身者たちは、「フランクフルトバンドー会」「ハンブルグバンドー会」のような会を結成して「バンドーのラーゲルコマンダー」のことを懐かしんだそうです。

 日本の方では、もとバンドー収容所跡地に「鳴門ドイツ館」という記念館ができています。

ドイツ館

☆6 ドイツでも

 第一次世界大戦が終わった1918年の大みそかにドイツのライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団が平和と自由への願いをこめて「第九」を演奏し、それ以来、年末の「第九」が伝統になっています。

オーストリアのウィーン交響楽団も「第九」が年末の定番です。

 

ひとことで言うと

 もとをたどれば、日本では、第一次世界大戦中、徳島の俘虜収容所内でドイツの兵士たちが日本人の前で初めてベートーベンの「第九」を演奏したことに始まっている、ということを思い出したいものです。

 

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*1  中野好夫(1903~1985)英文学者。松山に生まれ、旧制徳島中学校に通っていました。サマセット・モームの作品の翻訳者としても有名。

*2 『二つの山河』 中村彰彦著  文藝春秋  1994年

板東(ばんどう)俘虜収容所は徳島市から吉野川をはさんで北西へ14㎞の所(徳島県鳴門市)にありました。「バンドー」というのは板野郡の東部ということからできた名前です。

* 余談 1

1905年日露戦争中、日本海海戦で活躍した秋山真之(さねゆき)という軍人は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』で有名になりましたが、秋山真之も明治維新で賊軍となった松山藩の出身でした。日露戦争で捕虜になったロシア兵を松山収容所では「武士の情け」をもって寛大に処遇したということです。日露戦争は第一次世界大戦のたった10年前のことですから、松江豊寿は松山収容所のことを知っていたのかもしれません。

* 余談 2

 1914年第一次世界大戦で青島から日本へ連れて来られた捕虜たちの中には、後に日本に大きな影響を与えたドイツ人、ユーハイム(Juchheim )やローマイヤ(Lohmeyer)などがいました。

日本の有名な洋菓子店「ユーハイム」を作ったカール・ユーハイムは、1909年からドイツの租借地だった青島で喫茶店を開いていて、1914年第一次世界大戦開戦直前にエリーゼと結婚もしていました。

 カールは軍人ではなかったのに、日本軍は青島にいたドイツ人を非戦闘員もかまわず捕虜として日本へ送ったのです。

 日本では松江中佐の所ではありませんでしたが、最初は大阪の収容所に入れられ、その後広島市のすぐ目の前にある似島(にのしま)という小さな島の収容所に移されました。1919年3月広島県物産陳列館 ( 現在の原爆ドーム )でドイツ人捕虜たちが作った作品を展示即売することになり、まだ広島にいたカールもこの時初めてバウムクーヘンを日本人に紹介しました。なかなか評判が良かったようです。

 1918年11月第一次世界大戦が終わりました。多くのドイツ人は帰国することにしましたが、カールは青島にもドイツにも帰らず、横浜で洋菓子店を開きました。しかし、1923年9月1日の関東大震災で被災。神戸の知人を頼って神戸に移り、エリーゼと共に神戸1号店をオープン。夫婦とも堅実な性格で手作りにこだわり、木の年輪のもようのバウムクーヘンは日本人の好みに合っていたらしく大人気になりました。

 しかし、第二次世界大戦が始まると、息子はドイツ軍に召集され、戦時中の外国人の立場では苦しいこともあり、店は神戸大空襲でまたもや全焼。カールは病に倒れ、ついに1945年8月14日終戦の前日に亡くなりました。

 一人の人の人生としては、捕虜収容所での4年間、関東大震災、第二次世界大戦中の生活、神戸大空襲など、過酷な大変な人生でした。しかし、彼がまいたドイツ菓子の種は日本に根付き、「ユーハイム」は日本の有名なお菓子の店になりました。

 他にも、名古屋収容所にいたローマイヤは、第一次世界大戦が終わった後、ロースハムを作り、銀座にドイツ料理店「ローマイヤ」を開き、デリカテッセンを始めた人としても有名になりました。