11. 江戸時代ヨーロッパの中でオランダだけが貿易相手国になったのはなぜ?   ≪ 江戸時代の独占貿易 ≫

Print Friendly, PDF & Email
 

☆1 貿易商人とカトリックの宣教師たち

 14,15世紀、ヨーロッパは、オスマン帝国(トルコ)によってアジアへの貿易ルートを抑えられ、東方との貿易はオスマン帝国の商人を介して行うしかありませんでした。11世紀頃から13世紀頃まで十字軍などで何度も戦いましたが、イスラム勢力の先進技術と圧倒的な武力に勝つことができません。ヨーロッパの人々は何とかして直接アジアと貿易できる方法はないかと模索していました。何か他の道はないだろうか?

 陸路がダメならば海だ。地理学や航海術の発達で、15世紀末には大西洋に近いポルトガルが船でアフリカ大陸の南を回るルートを見つけたり、スペインが西へ行けばグルっと回って東のインドへ行けるはずだ、と信じて大海原に乗り出していったり、「大航海時代 (The Age of Discovery)」の始まりです。命をかけた冒険ですが、アジアへの大航海が成功し胡椒や香辛料を直接手に入れられれば、莫大な財産が手に入るはずです。

 こうして、多くの名もない冒険者たちの挑戦の後、16世紀にはまずポルトガルとスペインが、インド、モルッカ諸島 ( 香料諸島、インドネシア)(*1)などへ出かけて行って交易できるようになりました。

当時の帆船の模型 (東京 丸の内)

 一方、キリスト教は、15世紀ドイツのルターによってキリスト教改革運動が始まり、「プロテスタント(抗議する人、新教)」と呼ばれました。それに対して、それまでのキリスト教は「カトリック(旧教)」と呼ばれ、大きなパワーになってきたプロテスタント勢力に脅威を感じていました。プロテスタントに負けてはいられない。ちょうど「大航海時代」だったので、これからは全世界にカトリックを広めていこうと、船に乗ってはるばる遠くの国まで布教の旅に出かけるようになりました。

 

☆2 日本へ

 中国船に乗ったポルトガル商人が種子島(たねがしま)に鉄砲を持って(売り込みに?)やって来たのが1543年、そして6年後にはザビエルがキリスト教布教のためにやってきました。貿易とキリスト教の布教がセットで日本に入ってきたのです。

 その時16世紀の日本は戦国時代。足利幕府は有名無実化しており、多くの戦国大名が戦いに明け暮れ、領地を取ったり取られたりしていました。鉄砲があれば今までの戦い方が革命的に変化し圧倒的に有利になるということがわかると、各地の大名は鉄砲を手に入れたいと考えるようになりました。その中で特に一番早く貿易ルート(堺)を押さえ、鉄砲を実戦に使ったのが織田信長でした。

 

☆3 織田信長 (1534~1582)

 全国統一の意志を強く持っていた信長は、桶狭間の戦い(26歳、1560年)で初めて組織的に鉄砲を用いて今川義元を破りました。信長は全国統一への道を着々と歩み始めたのです。

織田信長

 実戦に勝つため鉄砲を用い、利権集団と化していた強大な仏教勢力を打ち破るため、キリスト教も新しい考え方として進んで取り入れました。そして遠くの未知の国からやってきた宣教師たちの話を新鮮な驚きで聞き、新しい知識を吸収しようとしました。

 

☆4 豊臣秀吉 (1537~1598、信長より3歳年下)

 全国統一を目の前にして本能寺で倒れた信長に代わり、統一を成し遂げた秀吉も、最初は宣教師たちと良い関係でした。が、しだいに九州の大名たちや一般の信者たちが何万人という数になってきて(*2)、秀吉よりもキリスト教の神様、「デウス様」の方が大事だという人が増えてくると、警戒し始めました。

 宣教師たちもしだいに態度が大きくなってきて、ポルトガルやスペインに征服されてしまうかもしれないという危険を感じ始めた秀吉は、遂に「バテレン追放令」(*3)(1587年)を出すに至りました。

 他のアジアの国を見ると、国が分裂していたら簡単に外国に征服されてしまいます。実際、スペインがフィリピン征服を終えて、次は日本に取りかかろうとしていた時、ちょうどその時秀吉が日本統一を果たしたという、日本にとっては、あわやというタイミングだったのかもしれません。

 

☆5 徳川家康(1542~1616 秀吉より5歳年下)とウイリアム・アダムズ ( 1564 ~ 1620 )

 1600年の「関ケ原の戦い」の半年前、イギリス人のウィリアム・アダムズの乗ったオランダ船が日本に漂着しました。家康は個人的にアダムズを信頼するようになり、ポルトガル・スペインのカトリックの宣教師たちより、オランダ・イギリスの人達のほうに良い印象を持つようになりました。 (*4)

 世界的にも、1588年スペインの無敵艦隊がアルマダ海戦でイギリスに大敗。制海権はイギリスに渡り、16世紀盛んだったスペイン・ポルトガルに代わって、17世紀には新興国オランダ、イギリスの方が勢力を増していきました。オランダはそれまでスペインが支配していたモルッカ諸島もスペインから奪い(17世紀初め)、イギリスはインドの海岸地方を基地にして、それが後にアジアの植民地化につながっていきました。(*5)

 家康は最初、秀吉の行った朝鮮出兵などで財政的に苦しかった日本を豊かにするため、貿易で国全体を富ませようとしました。朱印船貿易で年間30隻もの船を東南アジアへ出し、その貿易で財をなした茶屋四郎次郎や呂宋(ルソン)助左衛門などの豪商もいました。シャム(タイ)で活躍した山田長政もこの頃で、日本人町もできていました。

徳川家康

 しかし、やはりキリスト教は危ない。家康は若い頃、三河の一向一揆にずいぶん悩まされた経験があり、宗教勢力のおそろしさを身にしみて知っていました。

 家康は、世界の銀産出量の3分の1を占めるほど豊かだった佐渡などの銀山の採掘や精錬技術を、当時メキシコの銀を取っていたスペインから得たいと思っていました。しかし、スペインとの貿易を続けていると、キリスト教の広がりとともに他のアジア諸国のように植民地化されてしまうかもしれないと考えるようになり、ついに1612年には直轄領の江戸、大坂、京、長崎の天主堂を破壊、バテレンも追放にしました。

 

☆6 キリスト教は禁止したいが貿易の利益は欲しい

 徳川幕府としては、キリスト教は禁止したいけれども、貿易の利益は欲しい。銀の過度な流出を防ぐためにも、他の大名たちには許さず、徳川幕府だけが独占できる程度にコントロールして続けたい。オランダ・イギリスは、布教はしない、目的は貿易だけだということで、幕府にとっては好都合。

 当時ヨーロッパの複雑な政治情勢のもと、オランダ本国はスペインの支配下にあり、完全な独立を求めてスペインと戦争状態にありました。南アメリカやメキシコの銀を独占していたスペインに対抗するため、日本の銀を得て独立戦争の資金にしたいオランダは、商館長スペックスが家康に正式な貿易の許可を求めていました。

 家康はアダムズとの関係で、イギリスを貿易相手国にしようとしていました。1613年イギリスのセーリス(Saris )司令官が来航した時には、家康は浦賀に港を作ってはどうかと言っていたのです。しかし、アダムズはイギリス人よりもオランダ人と仲が良く、オランダ人の味方をしました。 (*4)

  1615年の大阪の陣では、オランダから高性能の大砲を買い入れ、それで大坂城を落城させることができたということもありました。

1616年にはヨーロッパの国との貿易を平戸、長崎だけに限定。1623年イギリスとの貿易中止。ついにオランダ一国を相手に幕府がヨーロッパ貿易を独占することにしました。相手国が後に大国になるイギリスではなく、後に小国になるオランダを結果的に選んだということは、何という偶然の幸運でしょう。

 1635年には日本人の海外渡航も禁止。

 1641年、平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し、オランダ船だけが長崎だけに来航することを許可し、キリスト教は徹底的に禁止しました。

 なぜ、キリスト教は禁止、オランダとの貿易だけは続ける、という幕府にとって都合のいい体制にできたのでしょうか。

 それは日本の幕府側が1つにまとまっていたのに対して、オランダやポルトガル、スペイン、イギリスは互いにライバル関係にあり、告げ口合戦のようなことまでしていたからです。オランダは幕府に対してキリスト教の布教はしないと約束し、日本との貿易を独占、莫大な利益を得ていたので、(江戸時代)イギリスなどから冷ややかな目で見られていたようです。 (*6)

 

☆7 結局 100年間

 1543年にポルトガル人が日本にやってきてから約100年間、ヨーロッパ文化の影響を受けたことになります。言葉の面でも、「テンプラ(*7)、カステラ、パン、ビスケット、こんぺいとう、ばってら、コップ、カッパ、マント、じゅばん、カルタ、ボタン、タバコ、チャルメラ、ピンからキリまで、おんぶ(*8)、おてんば、先斗町(ポント町)」などはポルトガル語から入ったもので、「ポン酢」はオランダ語の「pons(柑橘類を絞った汁)」に「酢」という字をあてたものと言われ、今も使われています。

 1641年、制限貿易体制(「鎖国」)完成後、江戸時代200年以上、外からの情報は、たまに来るオランダ船、中国船の商人、朝鮮通信使から得られるものだけになりました。

 

ひとことで言うと

 キリスト教は禁止したいが貿易はしたい徳川幕府は、自由貿易は禁止し、幕府が一国だけ選んで貿易を独占しました。オランダになったのは、家康とアダムズの個人的親交も大きな影響を与えたようです。

 

 ---(*)―--

 

*1 モルッカ諸島は「スパイス・アイランド」と言われ、特にクローブ(clove丁子チョウジ)やナツメグはモルッカでしか取れず、金より貴重だといわれた香辛料でした。

*2 秀吉の時代には、キリシタン30万人と言われました。 ザビエルについては『銀の島』 山本兼一著 朝日新聞出版 2011 参照

*3 「バテレン」というのは、ポルトガル語・スペイン語の「パードレ(Padre、父、神父)」で、日本人が「バテレン」と発音したことによります。 ( Padreは 英語の Father )

*4 「10.『ガリバー旅行記』のモデルになったイギリス人は誰?」参照

*5 イギリスの東インド会社は1600年設立。オランダが東洋に進出しているのを見て、エリザベス1世の特許状を得て1601年第1回派遣。1613年 John Saris 司令官が来日したのは第8回派遣船隊。

*6 「10.」参照。『ガリバー旅行記』の中で、「オランダは踏み絵までして利益を得たいのか」と風刺の対象にもされています。家康の時代には、「佐渡の銀山」などが世界の銀の生産量の3分の1を占めていたほどで、日本は銀山王国でした。実際、オランダは、大坂の陣の時など家康に大砲を納入し、年間94トンの銀を日本から得ていたこともあり、莫大な利益でした。

*7 日本人がポルトガルの料理、魚の揚げ物 peixe fritoを見て名前を尋ねた時、ポルトガル人は調理法を聞かれたのだと思って Temprar (調味料を加えるのです)と答えたので「テンプラ」が料理の名前になったそうです。  (『ジャパゥン ルイス・フロイス戦国記』 清涼院流水著 幻冬舎 2018  p. 105 )

*8 「オンブ」はポルトガル語の ombro (肩)から来ていると思われます。1549年ザビエルと共に日本にやって来たコスメ・デ・トルレスは、ザビエルが2年後中国に去った後も、日本布教長として14年間、主に長崎県横瀬浦(現西海市)に滞在していました。1563年、肥前・大村の領主だった大村純忠がトルレスの教会まで来てくれることになり、トルレスは片足を痛めていたにもかかわらず、敬意を表すため途中まで領主一行を迎えに出ていました。大村純忠はトルレスの足が悪いのを見て、家来に彼を背負うように命じ、トルレスに肩を叩くようなしぐさを示したら、通訳者は「肩」のことだと思って ombroと言ったのです。このことから、大村純忠は「オンブ」が「背負う」という意味だと思って、後にそれが広まりました。  (『ジャパゥン ルイス・フロイス戦国記』 清涼院流水著  幻冬舎 2018  p. 102 より )