日本では、赤ちゃんが生まれて1か月すると神社に「お宮参り」に行き、結婚式はキリスト教式チャペルで、お葬式は仏教のお寺で行っても、あまりおかしいと思いません。
現代の日本人に「あなたはどの宗教を信じていますか」と聞いたら、「う~ん、仏教かな? 神道のかみさまかも~?」という答えが返ってきて、外国人はびっくり。日本人は宗教を持っていないのかと不思議に思われます。
☆1「多神教」と「一神教」
日本では太古の昔から、自然界の中の気高い山をあがめ、海を支配する力をおそれ、太陽、大きな木など、人間の力を超えた大きな存在に不思議な力を感じ、「カミ」さまと呼んで崇拝していました。自然の中で生きている人間として「やさしい自然」をあるがままに感謝して受け入れていたのです。
他にも自然界のいろいろなものに「霊 spirit」の存在を感じ、毎日の生活の中でも「村のカミさま」「台所のカミさま」「火のカミさま」など、身近に「カミ」さまを感じて暮らしていました。あまりにも身近なので特に「宗教」と感じていない人も多いようです。「カミ」さまはたくさん存在しているので「やおよろず(八百万)のカミ」とも言われます。
ここが、唯一神の一神教(キリスト教やイスラム教)と根本的に違うところです。唯一神の考えが生まれたのは「厳しすぎる自然」の中で、何とか自然に打ち勝つ方法を考えなければ生きていけないという世界でした。
一神教では「God」はただ1つの絶対的な存在ですから、他のいかなる「カミ」も認めることはできません。絶対に1つなのです。自分たちの「神」だけが正しいので、他のものは「正しくない」ということになります。
(世界中で一神教が生まれたのはアラビア半島のあたりだけで、他は大体どこでも自然崇拝でした。)
☆2 「固有の神道」と「外来の仏教」
6世紀頃、インドを起源とする仏教が中国、韓半島を通して日本に入ってきた時、宗教というより、国を統一し政治体系を整えるための「先進文化」として取り入れられたので、「神道」のトップであるという意識があまりなかった「おおきみ(天皇)」が「仏教」を受け入れてもおかしくない、ということになりました。古くからある自然崇拝の日本の神様とうまく合うように説明を考え、「神仏習合」として共存させました。
仏教の布教者たちが、仏教の宗教概念を「固有語(やまとことば)」に翻訳せず、すべて「漢語」のまま外来語のままにしたということも、日本の「カミ」が消えなかった理由の1つと考えられます。「仏」は「かみ」と訳されなかったし、「地獄」は「よみのくに」、「極楽」は「たかまがはら」にしませんでした。(*1)この時代は漢語のままのほうが先進的でかっこよかったのでしょう。
一神教が生まれたアラビア半島などにおける牧畜民族の「食うか食われるか」の「民族間まさつの文化」に比べると、日本は「孤島的」で、国家成立後から同質性を維持しているので、外のものを受け入れてもケロリとすましていられました。封鎖性があるからこそ、何の心配もなく外来文化をどんどん摂取できたのです。(*2)
外から新しい文化が入ってきたら、古いものと一緒にうまく共存して重層的な文化として続いていきます。この「平和的共存」は現代世界の問題を解決するヒントになるでしょうか。
☆3 宗教で殺し合う
世界でイスラム教やキリスト教が、宗教のために憎みあったり戦ったりしているのを見て、日本人の多くは「どうして宗教で戦うのか? 日本人は神道、仏教で一応仲良くやっているのに・・・」と思っています。
しかし、日本でも16世紀の戦国時代までは、同じ仏教徒の間で戦い、殺し合うという宗教戦争が多くあったのです。「比叡山」(天台宗山門派)vs 日蓮宗 (「比叡山」は京都にあった21の日蓮宗の寺をすべて焼き討ちし、そこにいた人間は皆殺し、1536年)、日蓮宗 vs 浄土真宗など、お互いの「正義」のためか 権力闘争のために殺しあっていました。その頃のお寺は僧兵を抱えていて武装集団だったので、本当に殺し合いになりました。信長以前は宗教戦争がめずらしくなかったのです。
☆4 戦国時代、織田信長 (1534~1582)が古いものを破壊しようとした時、もっとも厄介なものが仏教勢力の圧力団体だった
( 日本の中学校・高校の日本史の授業では、信長が「楽市・楽座・関所の撤廃」を行ったということは習いますが、その意味するところは先生からよく説明されていません。それまでの状態がどのような社会だったのかを知らなければ、本当の意味はわからないのです。)
その頃は、既成仏教が強大な経済的「既得権」を持っていて、すべて自分たちの思うままに権益をほしいままにしていました。
例えば、「関所」が至る所にあり、そこでは「関銭」を徴収していました。(京都~大坂間の)淀川だけで100以上も関所があり、経済・流通を阻害していました。 税は誰が取っていたのか? 有力寺社です。利権です。それでは商人は困りますが、特権商人はフリーパス。フリーパスを得られる商人は「座」に属している人で、「座」の後ろにいるのはやはり巨大寺社。「座」に属している商人は毎年お金を納め続けなければなりません。寺社が商売の利益をかすめとっていたのです。ライセンスを持っていない商人は関所で関銭を払わなければならない。どちらにしても儲かるのは大きい寺社ばかり。
そのような状況の中で、ついに織田信長は京都へ通じる自分の領内の「関所」を撤廃したのです(1568年)。「楽座」というのは寺社の持つ許認可権を取り上げたものです。また「楽市」は今まで市場の商売は寺社の境内で行われていたのを、安土に新しい城下町を作り新しい市場をつくりました。そのために新しい城下町を作ったのです。
このような新しい時代を作り出す革命的改革は、信長ひとりで考え出したわけではなく、裏には信長のブレーン、沢彦(たくげん)などの知恵があったと言われています。しかし、信長のような強い性格がなければ実行できなかったでしょう。(*3)
織田信長といえば、比叡山延暦寺の焼き討ちが有名ですが、仏教勢力の力を破壊しなければどうにもならなかった、という背景が私たちにはよくわかっていません。信長の力でも勝てないくらい、信長に負けないような兵力と財力を寺社は持っていたのです。
☆5 寺社は土地に対する税も免れていた
8世紀からの律令制度による貴族の時代、土地の税も、農地ではなく「荘園」という形にすれば税を払わなくてもよい、という免税システムを貴族が自分たちで作っていました。寺社も貴族と一緒になって「荘園」を持ち、それがどんどん増えていきました。そうなると、「荘園」は免税なのだからと、農民も、貴族や寺社に名目上土地を寄進して脱税するようになりました。
例えば、大和の国(奈良県)は「興福寺」や「東大寺」の荘園だらけ。興福寺は藤原氏の氏寺です。貴族と寺社はぴったりくっついていて、貴族の二男、三男は寺社のトップの座に入っていくというシステムも作っていました。 (*3)
このように、貴族・寺社に好きなようにされている状態では、武士の世界を作るのは無理。信長はこのがんじがらめの状態を何とかして変え、武士が自由に生きられる社会にしようとしたのです。信長が必死の思いで何年もかかって戦ってやっと仏教勢力の力をそいだのです。信長のような強烈な個性の人でなければできなかった、というくらい大変なことでした。
ただし、信長は「武装集団」としての力を滅ぼしたのであって、宗教団体としては存続を認めています。宗教弾圧ではなく、「武装解除」させ、政治や軍事に関与しない「非武装」の宗教団体にしようとしたのです。(*4)
☆6 政教分離
次の秀吉の時代には、京都の東山に方広寺と大仏(*5)を作り、その合同法要に全宗教団体の代表者たちに参加するよう強制し、国家権力に従わせました。(従わない者は追放)
家康の時代には、仏教寺院はすでに丸腰になっていましたから、そこで本山・末寺制度を作り、檀家制度を作って全員が所属しなければならない、ということにしました。遂に、あのどうにもならないと思われた巨大な仏教勢力を統制することに成功したのです。(しかし、現在でも寺社の持っている広大な敷地には驚かされますが~)
キリスト教も、秀吉と家康が禁止したので、巨大な勢力にはなりませんでした。
信長・秀吉・家康は3人で「信仰の自由は認めるが、国の法には従え」という「政教分離」を完成させました。 (*4)
☆7 宗教に対して自由
現代の我々が強大な宗教勢力に支配されていないというのは、先人の大変な努力のおかげだということ、そして、どのようにして現在に至ったのかということを我々は知っておくべきです。
江戸時代には仏教の方が優勢であったり、明治時代になると神道の天皇をかついで新しい時代を作ったので、急に神仏分離令ということになり、お寺の仏像がたくさん捨てられたりしたこともありました。しかし、第二次世界大戦後は宗教の自由が保証されるようになりました。日光などのように神社とお寺が昔通り一緒にあるところもよく見ます。
今、日本人は2000年前のような自由な、自然に対する大らかさを取り戻して、自分たちは自然の中に生かされているという感謝と謙虚さを持って生きている感じがします。「自然」がまず存在して、その中に生きとし生けるもの、動物も植物も人間もみな同じように自然の中で「生かされている」と感じています。
一神教の世界では、人間だけが他の生物とちがって一段上にいる特別な存在だと考え、「厳しい自然」を「征服する対象」として考えています。が、日本では「やさしい偉大な自然」の前で「謙虚になる」というのが基本的な宗教でしょうか。
毎年、お正月には多くの人が神社に初詣に行き、年中、各地の神社仏閣は大盛況です。決して「大きな力の存在」を忘れているわけではありません。日本人は宗教心がないのではなく、自由に「かみさま」を感じているのではないでしょうか。
☆8 現代の宗教の姿は?
自分たちの「カミさま」だけが「正義」だと言っていたら、他の人の「カミさま」を認めることはできません。「人間を超えた存在」を認めるということは、全人類共通の認識でしょう。どのような「カミさま」かは、それぞれの「文化」です。文化は、地理的条件や気候条件によって異なるものです。
現代は「多様性 diversity 」を尊重する時代ですから、それぞれの「カミさま」を認め共存していくことが、小さくなった「地球村」で唯一平和に生きていく道ではないかと、日本人は大体そう思っていると思うのですが・・・
ただ、日本人は子供の時、宗教についてどのように考えたらよいかを教育の過程で教えられていないので、外国人に聞かれたらどう答えたらよいのかわからず、それがウィークポイントです。
ひとことで言うと
日本人の考え方は一神教的ではないので、一神教の人から見るとおかしいと感じます。
日本では、自然界の様々なものに「霊 spirit いのち」を感じ、自然のおかげで生きていられることを感謝し、小さな存在の人間が無事に過ごせるように謙虚に祈ります。
中世は寺社の力が強大になりすぎていましたが、織田信長のおかげで宗教の力を弱めることができました。今は一つの宗教に支配されるのではなく、太古の昔のように、宗教・自然に対して「自由な」寛容な、大らかな態度でいることができます。現代は1つの宗教を主張するのではなく、お互いの宗教を認めあう多文化共生の時代です。
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*1 『英語の語源』 渡部昇一 講談社現代新書 1977年
イギリスの「God」という言葉はもともとイギリス固有の神様を表していたのに、キリスト教が入って来た時、キリスト教の神の名を「God」という言葉に翻訳したので、もともとの神を表す言葉がなくなってしまい、存在もなくなってしまいました。(「6.≪日本の神様≫」の*で既出)
*2 『日本文化論』 石田英一郎 筑摩書房 1969年 ちくま文庫 1987年
*3 『逆説の日本史 8』 井沢元彦 小学館 2000年
『沢彦(たくげん)』 火坂雅志 小学館 2006年 p.340
*4 『逆説の日本史 11』 井沢元彦 小学館 2004年
井沢元彦氏は「政教分離」ができるようになったのは織田信長のおかげと力説しておられます。興味のある方は是非『逆説の日本史』を読んでみてください。
*5 国家権力による宗教統一の目的のため、秀吉は奈良の大仏より大きい大仏(木造)を作りましたが、何と10年後には地震で倒壊。京都では2万人以上が死亡し、秀吉が建築中だった伏見城も崩れたという1596年の慶長伏見地震です。