日本語学習者のためにわかりやすく、大まかに、ざっくり説明してみると・・・
地球規模で見ると、そもそも日本列島は3000万年前までは大陸の東の端にあり、プレートが東に引っ張られるのにつられて大陸から引きちぎられ、長い時間の中で今のような列島になったのだそうです。
現在生きている人類は、7万年くらい前にアフリカ東部から地球上に広がっていったと言われていますが、日本列島にやって来たのはおよそ2万年前。それから、大きな流れとしては4つの「波」が日本列島にやって来たと考えてよいでしょう。
☆1 第1の波 2万年前~1万年前(石器時代)
主に 北方から
2万年くらい前の氷河期には、今より海面が120メートルくらい低く、日本列島は大陸とつながっていました。宗谷海峡は水深60メートルくらいなので、その頃は陸橋のようになっていて、サハリンから北海道へ歩いて渡って来ることができました。
(津軽海峡は140メートルの深さなのでここは陸続きではありませんでしたが)
日本と朝鮮半島の間の対馬海峡も水深100メートルくらいなので陸橋のようになっていました。瀬戸内海は水深60~100メートルなので、そのころは乾いた谷で、今でも瀬戸内海の底からナウマン象の牙が出てきます。確かに歩いて来れたのです。(*1)
人間も、主に北アジア、オホーツク方面からモンゴル系の人々が歩いてやって来て、狩猟・採集の生活をしていました。
☆2 第2の波 1万年前~BC3世紀頃(縄文時代)
主に 南方の海の道から
しだいに暖かくなり、氷が溶けて海面が上昇し、6500年前頃には海面が現在よりずっと高くなり、もう大陸から歩いて渡って来ることはできません。(「縄文海進」)(*2)
この頃は南方のフィリピン、インドネシア、ポリネシア辺りから、小さな船で、黒潮(*3)に乗り、新しい土地を求めて、日本列島にたどり着いた人達がいました。
この時代に南方から伝わってきた文化は、現在の日本文化の根底部分になっているものが多く、例えば:
(a) 「高床式の家」の建て方 :
南方からやって来た人々は、もともと出身がインドネシアなどの高温多湿地帯でしたから、新しくたどり着いた南日本も高温多湿なので、同じように高床式の家を作りました。家の床の下に風を通し、壁はなるべくオープンにし、暑さをしのぐことが主目的でした。田舎では今でも床が高い家が多く(80cmくらい)、家に入ってくださいということを「おあがりください」と言います。 (家の中に「いろり」を作るのは北方文化)
(b) 日本語の音 「母音が多い」 :
日本語の文法はモンゴル語や韓国語などの北方系ですが、音は南方系 例えば、インドネシア語(「テレマカシ、サマサマ」)、ハワイ語(「アロハ、カメハメハ」等)も母音が多いことばです。
(c) 「 母性が強い」 :
南方文化は女性が強い、というより、厳しい自然もなく怖い動物もいないので、強い男は必要なく、新しい生命を生み出す母という存在が神秘的な大切なものと考えられていました。神の声を聞くのは女性で、今でも沖縄の島々には「のろ」と呼ばれる巫女たちの慣習が残っています。
(d) 「 裸に抵抗がない」 :
暑い地域なので、裸は自然。すもうも海のそばで裸に近いスタイルでするし、海が近くにあるので濡れてもいいように裸に近い方が便利。従って、性文化もおおらかでとても自然。
☆3 第3の波 BC3世紀~AD3世紀(弥生時代)
主に 中国南部、朝鮮半島から
BC221年、秦の始皇帝が中国を統一しました。戦いに敗れた側の人々は、新政権の下で服従するか、どこか他の土地に逃げて行くか、という選択を迫られました。 主に揚子江の辺りから、稲作技術を持った人々が東の方へ逃げて南九州へやってきたり、朝鮮半島から日本海側へ渡ってきたと考えられています。
稲作をするには、村人皆が同じこと(田植え、稲刈りなど)をしなければなりません。「皆が同じことをするのが良いことだ」という文化が長い時間かかって定着していきました。
☆4 第4の波 4世紀~7世紀(古墳時代)
主に 朝鮮半島から
4世紀には朝鮮半島に大きな動きがあり、カラ(カナ)、百済、新羅などが国として成立した時期です。「やまと」のクニはカラや百済と接近し、半島ルートを掌握。日本列島へやってくる人の流れが増えました。
5世紀後半、高句麗が百済の都をおとし、7世紀には高句麗・百済も、唐と組んだ新羅に敗れ滅亡。百済の多くの負けた人々は新しい文化・技術を持ってドッと日本列島へ逃れてきました。
大陸で動きがある度、人々が日本列島へ流入して来ましたが、ここはもう行き止まり。これ以上東へ逃げて行くことはできません。ここで何とか仲良く暮らしていくほかないのです。「和」を大切にして暮らさなければ生きていけません。
様々な方面から「少しずつ」あるいは「ドドッと」人々が大陸の端の日本列島へやって来て、適当に混ざり合って「原日本人」ができていきました。
☆5 西日本
4世紀頃から今の奈良県にあった「やまと」のクニがしだいに勢力を増し他のクニを支配下におき、やまとの王君(おおきみ)が「天皇」になり「日本」を作っていきました。(*4) この後、8世紀になって、710年奈良に都、794年に京都を都として、記録のある歴史が続いていきます。
☆6 東日本
西日本の統治体制が大体決まった後、あとから来た人々は、西日本はもう人が多いので、まだまだ広い土地がある東日本へ行くように言われ、東へ行って土地を開墾し、米を作り、自分の土地を自分で守るために武器をとって戦いました。これが武士のはじまりです。
これから、西日本の京都中心の「貴族文化」と、東日本の「武士文化」の2つの流れがずっと江戸時代末まで続いていくことになります。
簡単に言うと
第1の波 2万年前~1万年前 北方から 北アジア、オホーツク方面からモンゴル系の人達が主に北日本へ
第2の波 1万年前~BC3世紀 南方の海の道から フィリピン、インドネシア、ポリネシアなど南方系の人々が黒潮に乗って船で主に南日本へ。日本文化の根底部分 「高床式住居」、「母音の音」、「母性」、「裸」など。
第3の波 BC3C~AD3C 主に中国南部から 揚子江流域や朝鮮半島から農耕民が主に九州、日本海側へ。 稲作によって、村・クニを形成。「共同作業は良いことだ」
第4の波 AD4C~7C 朝鮮半島から 東北アジア系の人達が朝鮮半島沿いに南下。九州、西日本へ。 これ以上逃げられない。仲良くしなければならない「和」の文化。
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*1 瀬戸内海は現在水深60~100メートルなので氷河期には乾いていて谷でした。 宗谷海峡は水深60mくらいで、日本と朝鮮半島との間の対馬海峡も100メートルくらいの深さなので陸橋のように地続きでしたが、津軽海峡は140mの深さがあるので地続きではありませんでした。 ちなみに、日本海の深さは3,700m~4,000mくらいあります。
*2 10,000年で大体100m海面が上昇。100年で1m、1年で約1cm上昇したということになります。
*3 「黒潮」というのは海流で、太平洋の赤道の北を西へ向かい、フィリピン沖の東で北へ向かい、台湾の東で北東へ曲がり南西諸島に沿うように北上、九州・四国の南を東に向かって太平洋へ戻って行きます。
南西諸島のあたりでは黒潮の幅は50km~100km、時速はおよそ6km、人が早足で歩くようなかなりの速さで、海の中の川のように流れています。この海流に乗れば、小さな船でも南方から日本へ流れつくことができたでしょう。
*4 「2.日本はなぜ『日本』という国名になった?」 参照
「15.『中国地方』というのはなぜ『中国』?」 参照