日本の料理の原型は何でしょうか? てんぷら? スキヤキ?
No! No! 日本料理の原型は「なべ料理」です。 なぜでしょう?
☆1 縄文時代( 1万年前~BC3世紀) までさかのぼってみると・・・
縄文時代の狩猟採集生活では、動物や魚はいつも手に入るとは限らないので、木の実などを森の中から集めて来て、何とかして確実な食料にしようとしました。クルミ、クリはそのまま食べられましたが、ドングリ、トチの実は苦くて、しぶくて、アクが強くてそのままでは食べられません。
6000年前頃から木の実を日に干して乾燥させ粉状にして、だんごのようにして食べたり、水で煮て何度も水にさらしてアクをとり毒素を抜いて、「とちもち」にしたり、何とかして食べられるよう工夫しました。(*1)(*2)
☆2 水と鍋
木の実を煮るには、「きれいな水」と「入れ物」が必要です。
「水」の方は、日本は山が多く( 現在国土の70%以上)かなり高い山が多いので季節風が山にぶつかって雨が多く降り(*3)、雨水や雪解け水が山の地面に浸透し濾過され湧水となって、きれいな水がいたるところから湧き出していました。高い山が多いということは 川も多く流れていて、しかもきれいな清流なので、泉や川の水をそのまま飲むことができました。きれいな水がどこでも手に入りやすい、という地球上でも恵まれた所だったのです。(*4)
あとは水を入れて煮る「入れ物」が必要、ということで、早くから土器を作る工夫をしました。これが「縄文土器」といわれるもので、世界の中でもかなり早い時期(1万年以上前)から土器が作られました。どうしても木の実を煮るため必要なものだったので、早くから作られたのです。
「きれいな水」と「入れ物」があれば、その「鍋」に水と野菜、魚、肉などを入れて煮れば、何でも食べられます。後に「米作」が伝わってからは、米も鍋の中に水と一緒に入れて火にかければ、おいしいごはんが食べられるということがわかりました。米は収穫後そのままで保存でき、水と鍋があれば、いつでも簡単に炊いて食べられるので、どんどん米作が広まっていきました。
牧畜民族の「焼く」文化に対して、日本は「煮る」文化です。
☆3 火の回りを囲んで
暖かい地方では家の外の「たきび」で、寒い所では家の中の「いろり」に鍋を掛け、そこを中心にして家族が回りを囲んで座り、なべ料理を食べました。その鍋から直接熱いものを各自のお椀にすくって入れ左手に持ち、右手にお箸を持ちます。具はお箸ではさんで食べ、汁はお椀のふちに直接口をつけて飲みました。火にかけてある鍋から直接入れたものなので、とても熱く、フーフー息を吹きかけ、さましながら吸いますが、唇がやけどしそうです。やけどしないように飲むには、唇と汁の間に空気を入れて吸えば大丈夫。でも、そうするとズズズーと音が出ます。
長い間やっているうちに、この「やけどしないように空気と一緒に吸う習慣」がしっかり身につき、今では熱くないものまで、例えばアイスコーヒーを飲む時も空気と一緒に吸うようになり、ズズズーと音を立てて飲みます。液体だけでなく麺類を食べる時、熱い「かけそば」はもちろんですが、冷たい「ざるそば」を食べる時も、食べるというよりズズズーと吸い上げて上手に口に入れるようになりました。
子供の時はあまり上手にできませんが、おはしの使い方が上手になっていくのと同じように、空気と一緒に吸う食べ方もだんだん上手になります。
さらに、日本の食文化について ・・・
☆4 何でも木製
「いろりの火」の回りはものを置く場所があまりないので、(普通は)右手におはし、左手にお椀を持ったまま、大体ずっと下に置かずに食べていましたから、スプーンなど他の物は使わず、何でもおはしで食べました。具と汁が一緒にある料理、つまり、鍋料理( みそ汁も )、うどん、そば、ラーメンなども、スプーンを使わず、おはしだけで食べるので、汁を飲むときは左手で器を持って口をつけて吸います。日本の食器は、何でも自然の中で簡単に手に入る「木」で作られていたので、おはしもお椀も元々木製で軽く持ちやすいということもありました。
(日本人は重いラーメン丼まで日本式に左手に持って食べるので、韓国や中国の人から変な目で見られます。)
☆5 テーブルは?
「おはし」と「お椀」を両手に持って、もともと火を囲んで床に座って食事をするので、テーブルというものはありませんでした。後の時代になって、「いろり」のない部屋で食事をする時も、食器をのせるのは、高さ30cmくらいの低い個人用の「お膳」(40cmx40cmくらいの小さい台)で、一人一人自分のお膳でした。これなら人数が一人でも、結婚式の時のように大人数になっても、何人でも大丈夫。「ざぶとん」と同じシステムで、ずらーっと一列に並べればいいのです。
皆が一緒に食べる大きいテーブルが日本の居間に入ってきたのは、昭和になってから(1920年代)で、低い丸い形の「ちゃぶ台」でした。高い足のダイニングテーブルが一般家庭に普及し始めたのは、第二次世界大戦後ダイニングキッチン形式のアパートができてからで、1970年には「ちゃぶ台」より「ダイニングテーブル」の方が多くなりました。
☆6 材料そのものの味を大切に
日本料理の鍋料理は、ただ水と材料を一緒に煮るだけで、あとは何か「ポンズ」など調味料につけて食べるか、あるいは鍋の中のスープに「しょうゆ」か「味噌」を入れて味をつける、くらいです。つまり、もとの材料の味ををそのまま生かすので、材料そのものが大切ということになり、これは現代の他の日本料理にも受け継がれています。
☆7 「茶わん」と「湯飲み」
ごはんを入れるものを「茶碗」、お茶を飲むものを「湯飲み」というのを、どうしてだろうと考えたことがありますか。
信長・秀吉の時代(16世紀)に、「お茶を飲む」という習慣とともに、陶器の器(うつわ)が中国・韓国から入ってきました。その陶器は上薬をかけたなめらかなツルツルの肌触りのよい陶器だったので、大変珍重され、「茶碗」一つが「城」一つと同じくらい大事だと言われたほどでした。
初めは、武士や裕福な商人たちが喫するぜいたくな「お茶」と「茶碗」は、庶民の手の届かないものでした。しかし、しだいに上薬をかけた陶器も日本で作られるようになり、誰でも使えるものになってくると、ごはんを入れる器も木製のものより陶器の方が、きれいで、洗いやすく、長持ちがして良い、ということになりました。「お茶」用の器を「ごはん用」に使ったので「めし茶碗」と呼ばれました。これがだんだん短くなってただ「茶碗」と言われるようになったので、ごはんを入れるものが「茶碗」になってしまいました。
飲み物の方は、庶民にとってお茶はぜいたくなもので、普通はお湯を飲んでいたので、そのまま「湯飲み」でした。
中国やイギリスなどでは、お茶や紅茶は、あまりきれいではない水を飲みやすくするための必需品でしたが、日本では、水がきれいなのでそのまま飲むことができ、お茶や紅茶、コーヒーは必需品ではなく嗜好品・ぜいたく品でした。 (*5)
ひとことで言うと
日本は山が多く、きれいな水が豊富にあったので、縄文時代の昔から「煮る」料理が多く、火にかけた鍋から直接各自のお椀に入れて食べたのでとても熱い。唇がやけどしないように唇と汁の間に空気を入れて吸うように食べたので音が出てしまい、その食べ方がすっかり身について、熱くないものでも吸って食べるようになったからです。
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*1 『日本風俗の起源99の謎』 樋口清之 産報 1976年
*2 2017年2月12日のNHK「小さな旅」というテレビ番組の中で、新潟県村上市山熊田(やまくまだ)という山の中の小さな村では、今でもトチの実のおもちを作っている、というところを紹介していました。昔から、トチの実はアクが強く苦くてクマも食べないと言われていたそうです。トチの実をよく煮てさらし、灰でこすり、さらに何度も水にさらし、2週間くらいかけてアクをとります。大変手間のかかる作業ですが、秋に実を取っておけば、冬の食料になるので、昔からそうやっておもちにして食べていたということです 。 いつまでこの伝統が受け継がれていくでしょうか。
2018年2月18日のNHKテレビ「小さな旅」でも、再び山熊田村を訪れ雪深い村でのトチの実の「とちもち」を取材していました。少し茶色っぽい色のなかなかおいしそうな「とちもち」を焼いて食べていました。
2018年2月24日、BS6「もうひとつの京都」というテレビ番組の中で、京都府の山間部、美山町の限界集落のお年寄り達が「とちの実」を使って「とちもち」を作り、さらに「おかき」や「あられ」にしたりして町おこしをしている、というところを放送していました。他にも、庄川の奥の方に「とちもち」の文化が残っているなど、いろいろな地方で伝統食を残そうと努力している人たちがいます。
*3 日本の年間平均降水量 1700mm
*4 季節風が高い山にぶつかり雨や雪になって流れ、高い山から流れるので急流になり、地中のカルシウムやミネラルが十分に溶けることなく一気に流れていきます(軟水)。それで、日本の昆布の「だし汁」を作る時、昆布のおいしさの成分が水に溶けておいしいだし汁ができるのだそうです。
川の水がもっとゆっくり流れると、例えばヨーロッパでは、カルシウムやマグネシウムが多く水中に溶けるので (硬水)、昆布のうまみの成分がうまく溶け込まなくて、おいしい「だし汁」ができないとのこと。
日本は「おいしい水」でごはんも炊けるし、日本酒もこの「おいしい水」と「米」でできるので、おいしくなります。すべては「高い山」と「おいしい水」のおかげです。 ( NHKスペシャル GEO JAPAN 2017.7.23 & 30 )
*5 『逆説の日本史 8』 井沢元彦 小学館 2000年