☆1 ただの名誉官職名
歴史ドラマを見ていると、武士の名前を呼ぶとき「大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)」とか「吉良上野介(きらこうづけのすけ)」など、「○○守(かみ)」「○○介(すけ)」と呼ばれる人がよく出てきますが、これは何? なぜ多いのでしょうか?
元来は、律令上の役職名だったものが、戦国時代末期から江戸期にかけて、実態を伴わない名前だけの名誉官職名として多用されたものです。たとえば
・ 「大岡越前守」は、徳川8代将軍 吉宗が江戸町奉行に抜擢した「大岡忠相(ただすけ)」のことで「大岡裁き」で有名な名奉行でした。最初は「能登守」と言っていましたが、前任者が「能登守」だったので、急遽「越前守」に変えました。
・ 「知恵伊豆(ちえいず)」と言われた「松平伊豆守(いずのかみ)信綱」は、江戸時代前期の老中で、島原の乱や由井正雪の乱の鎮圧に活躍した人です。何か問題があれば伊豆守に聞け、と言われるほど機知に富んでいたので「知恵伊豆(ちえいず)」と呼ばれていました。NHKの教育テレビ番組「知恵泉(ちえいず)」は、この「知恵伊豆」をもじったものです。 (*1)
武士は、地位が高くなると、名誉官職名として「○○守」や「〇〇介」が与えられ、真田信繁(幸村)の父は「真田安房守(あわのかみ)」、秀吉は「筑前(守)」、柳生新陰流の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)は「柳生但馬守(たじまのかみ)」と呼ばれていました。赤穂浪士の「吉良上野介」、幕末の「小栗上野介(おぐりこうづけのすけ)」なども有名です。
「○○守(かみ)」は、江戸時代までの旧国の「長官」のような地位で、その下で「たすける、副長官」のような役職が「○○介(すけ)」と呼ばれました。 (*2)
・ 変わったものとしては、『平家物語』に出てくる、平清盛の異母弟「薩摩守忠度(さつまのかみただのり)」。名前が「ただのり」なので、後の世の人に「ただ乗り」とかけて「無賃乗車」のことを「さつまのかみ」と言われたりしました。
☆2 本名は知らない
なぜ高位の武士が本名を呼ばれず、「○○守」とか「○○介」という名で呼ばれたかというと、「13.日本ではなぜ名前を呼ばず『先生』『部長」』などと呼ぶ?」で取り上げたように、位の高い人の名を呼ぶときは、本名を呼ぶのは失礼で、本人からなるべく遠い物や場所の名で呼ぶ方が良いとされていたことが基本にあります。
例えば、「帝(みかど)」は「御門(みかど、gate)」から、武家の正室は「北の方(きたのかた)」とか「御台所(みだいどころ)」と呼ばれていました。 (*「13.」 参照)
武士も、本名(いみな)は使われず、例えば、明智光秀は、若い頃は通称の「十兵衛」、出世してからは「日向守(ひゅうがのかみ)」と呼ばれました。
☆3 そもそもの 位階制度 ( 7世紀 )
始まりまで遡れば、国の形がまだ固まっていなかった聖徳太子の頃、豪族同士の争いはもうやめて、日本もきちんとした「律令制度」を持つ統一国家になって人材登用の道を開きたいと、中国の制度にならい「冠位12階」(603年)という制度を作りました。
それが奈良時代に「大宝律令」となり、さらに藤原不比等(ふひと、藤原鎌足の子で藤原一族のもとになった人)らによって「養老律令」として細かくなり、皇族から公家、諸臣までの「位階」が制定されました。親王4階、諸臣30階などとして定められ、そしてその「位階」に対応した「官職」につくことが決められました。「位階」と「官職」を合わせて「官位」といいます。 (*3参照)
権力者側が「位階」を定めて、それを与える立場にいる、ということは、「権力を自分の一族(藤原一族など)だけで独占したい、他の者には渡したくない」ということです。
「位階」は身分の上下を表す基本の決まりになり、1200年以上ずっと20世紀まで続いていったのです。
☆4 平将門の時代 (10世紀・ 平安時代 )
「19. なぜ平将門の首塚は今でも丸の内にある?」であらわしたように、平 将門(たいらのまさかど)の祖父・高望(たかもち)王は、桓武天皇の孫でしたが、臣籍降下して、「上総の介(かずさのすけ)」に任ぜられ(従五位下)、一族郎党を引き連れ坂東(ばんどう、関東地方)に住み着きました。 (*2、3)
この時代、「上総の守(かみ)」が「上総のクニ」の長官でしたが、大体京都在住のまま。実際に現地に赴くのは「上総の介(すけ)」の副長官でしたから、「上総の介」というのは現地におけるトップ、今の「県知事」のようなものでした。(「上総の国」は現在の千葉県中央部。 *4の旧国名地図 参照 )
この頃は、朝廷から任命されて現地に行き、実際にその土地を治め、収税権も持っていました。
10世紀末から11世紀初めの藤原道長の時代(2024年NHK大河ドラマ)も実際に現地へ赴任していました。紫式部の父親は「六位」だったのを「五位」に上げてもらって「越前の守」になることができ、実際に越前の国へ行きました。
☆5 鎌倉時代 (13世紀) 官位制度をやめるチャンスだった!
鎌倉時代には鎌倉の武家政権がしだいに強くなり、京都の朝廷側(公家⦅くげ⦆たち)の力を上回るようになっていました。
13世紀、鎌倉幕府の源氏本流の血筋が途絶え、幕府内が混乱していた時、京都の後鳥羽 (ごとば)上皇は、かつての強力な支配力を取り戻したいと、鎌倉幕府を打倒しようとしました(承久の乱 1221年)が、失敗して隠岐へ流されました。
時の執権、北条義時(北条政子の弟、2022年NHK大河ドラマの主人公)は、朝廷を武力で倒した歴史上唯一の武将でした。
北条義時と後を継いだ子供の泰時(やすとき)は、鎌倉幕府が天皇側に勝ったことで、武家政権の確立という画期的なことを成し遂げたことになり、官位制度をやめるチャンスだったのです。しかし、北条泰時は、官位制度を壊すことなく、やはり利用したほうが便利だと考え、そのままにしました。 (*5)
結局、身分の序列をつけた方が支配者側にとっては何かと便利だったので、江戸時代までそのまま使われることになりました。
☆6 家康の「三河守」 ( 戦国時代末期・ 16世紀 )
家康が24歳の時(1565年)東三河の今川の将である朝比奈氏を攻め落とし、三河の統一を完成して、朝廷に「三河守」の官位を奏請しましたが、拒否されました。織田信長と同盟してから3年後のことでした。
そのため、家康は公家を買収し、子孫がいなくなった家系図を探し出し、源氏支流の新田氏末裔 得川氏の家系図を自分のものとくっつけ、「得川」を感じの良い「徳川」に変えて改名し、やっと「三河守」に任官できました。 (*6)
「○○守」などの「官職」は、大体「従五位」くらいの「位階」でなければなれませんでした。 (*3参照)
「位階」が上がらなければ「官職」につくことはできないことになっており、「位階」を上げるためには、朝廷にお願いし、「お礼」を納めなければなりません。
まだこの時代は、朝廷が任命権を持っていたので、その「お礼」が公家の大切な収入源になっていたのです。公家が絶対手放したくない既得権益でした。
家康は秀吉政権下で「大納言」(正三位)から「内大臣(内府)」(従二位)になり、晩年は「内府様」と呼ばれていました。(内大臣の方が将軍より上) (*3参照)
高位の「官職」を持っている武士に対しては「官職」名で呼ばなければなりません。「官職」は変わるので、下の者は失礼のないように、常に正しい官職名で呼ぶよう気をつけていなければなりませんでした。
☆7 徳川幕府の天下で名誉官職名に( 江戸時代・17~19C )
関ケ原の戦い (1600年) のあと、日本一の実力者となった徳川家康は「官職」を武士たちに勝手に与えられるようにしようとしました。
そして、大坂城の陥落(1615年)のあとは完全に徳川幕府の天下になり、「武家の官職」は朝廷とは関係なく、徳川幕府が自由に決められるようにして利用することにしたのです。
さらに、天皇・朝廷の授与権を認めず、公家の地位の「関白」まで、幕府がOKと言わなければ認めない、として、完全に武家の幕府の方が「上」だということを徹底させました。
しかし、天皇・朝廷・官位の制度を廃止することはしませんでした。
江戸時代は、クニの実際の土地とは全く関係のない、名前だけの名誉官職名 なので「出羽の守」が6人もいたりしたこともあります。ただの飾りの名前ですから、大岡越前守が「能登の守」からすぐ「越前守」に変えるということもできたわけです。
「実力」の戦国時代が終わり、戦の無い江戸時代には「序列」が社会を統制するために重要なものだと、家康は考えていました。
武士にとって「○○守」という名を受けるということは大変名誉なことで、武家社会のなかでの地位が上がりました。江戸城内での扱われ方、座の並び方から全てのことがその「地位」によって決められたのです。
徳川幕府にとっても、朝廷が持っていた「位を授ける」既得権益を徳川幕府が代わって持つことになり、武士たちに対して「位を上げてやる」というだけで、恩を与えることができました。
本名からなるべく遠い名で呼ぶという日本古来の習慣をうまく用い、幕府の権力を保ち続けるためにも有効な、便利なシステムとして利用したのです。
武士は戦場での働きに対する恩賞として、鎌倉時代は「土地」を与えられました。与える土地がなくなった時代、織田信長は、「茶器、茶碗」に城と同じような価値を持たせ、それらを恩賞として与え、秀吉は与える土地を求めて朝鮮出兵を考えました。徳川家康は、武士に「地位と誇り」を与えようとしたのです。
それにしても、例えば3代将軍家光の時代には、徳川幕府の幕閣は、お互い「伊豆(守)殿」(松平信綱のこと)、「讃岐(守)殿」(酒井忠勝)、「肥後(守)殿」(保科正之)などと、国名ばかりで呼び合っていたのです・・・
ひとことで言うと
もともと奈良時代に決められた「官職」でしたが、江戸時代の武家政権になると、徳川幕府が与える、ただ名前だけの「名誉官職名」になり、幕府が既得権益として都合のいいように「位づけ」を利用し、大名・武士の統制に用いました。
――― (* ) ―――
*1 『知恵伊豆と呼ばれた男』 中村彰彦 講談社 2005年
*2 「19.なぜ平将門の首塚は今でも丸の内にある?」参照
*3 養老律令(718年)『名君の碑』 中村彰彦著 等から簡単にまとめると
親王 4階 一品(いっぽん)~ 四品(しほん)
諸臣 30階 一位 ~ 三位 正従
四位 ~ 八位 正従 + 上下
「位階」と「官職」としては
正一位 関白
正・従一位 太政大臣
正二位 左大臣 相国 ( 平清盛、足利義満 など)
従二位 右大臣、内大臣
正三位 大納言 征夷大将軍
従三位 中納言 黄門 (水戸黄門など)
四位以上が 参議になれる
従五位上 大和守、伊勢守、武蔵守、下総守など
従五位下 山城守、三河守、甲斐守、下野守など のようなものでした
*4 旧国名の地図
国の名前は奈良時代に決められたもので、例えば北関東にあった「けぬのクニ」は2つに分けられ、京都に近い方を「かみつけぬの国(上毛野国)」→「上野国(こうづけのクニ)」と「しもつけぬの国(下毛野国)」→「下野国(しもつけのクニ)」などと決められ、それぞれの国に「守」と「介」が任命されました。(「つ」は所有の「の」の意味)
「15.中国地方はなぜ中国?」の 注 *3 参照
*5 『逆説の日本史 5』 p.264 井沢元彦 小学館 1997年
*6 『逆説の日本史 12』 井沢元彦 小学館 2005年